指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

語りの強さについて。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)
たとえばアウレリャノ・ブエンディア大佐が木に頭をもたせかけた姿で死んだ後、いちばん悲しんだであろう母親のウルスラについての言及が全く見当たらず、まるでその代わりのように妹のアマランタが大佐を最も愛していたという記述が唐突に現れる。この作品の語りは恣意的で独断過ぎるんじゃないかと疑われるのはこんなときだ。普通に読めばウルスラよりアマランタの方が大佐をより深く愛していたとは考えにくいからだ。同じことは時間の経過についても言うことができる。ごく稀な場合を除いてこの作品では経過した時間が年や月を単位としてはっきり示されることがない。しかも一度足早に語り終えた時間の幅を後になってもう一度より詳しい形で語り直す作業がしばしば行われる。でも先に読んだ短いバージョンと、後に置かれた長いバージョンはたいていの場合同一の時期を扱ってるとは思われないほど時間の長さに違いがあるように感じられる。ここでもまた時間が語りの恣意的な独断の下に置かれているのではないかという疑いがやって来る。話が入り組み過ぎていて、両バージョンの間に(作品内)事実の整合性があるかどうかほとんど確かめようがないことも、この疑いを抱かせるのに一役買っている。
でも語りのこの恣意的な独断が喚び起こす、こんなことはあるはずがないという信じがたさこそが、この語りのリアリティーに直結している。もしもマジック・リアリズムという言葉が成り立つとしたら、あるはずがないからこそリアルだというねじれ方にその根拠を持つ気がする。死後も姿を見せるホセ・アルカディオ・ブエンディアやメルキアデス、空を飛ぶオレンジ色の円盤、年単位で降り続く雨などがそのわかり易い例だけどそういう超自然的なことのみに限らず、マコンドという幻視の町について語られるすべての言葉が不合理で荒々しい力と猥雑な豊かさを備えて目の前に突きつけられる。そのテーマはもちろん愛と、愛する能力を持たないゆえの孤独だ。