うちの本棚に入りきらなくなって床とかに積んであった本を一部塾に置いた本棚に収めてある。そこにあるジョン・バースの「サバティカル」は途中まで読んで中断したままもう三十年以上は経ってると思う。なんでも夫婦がヨットだか小型ボートだかで航海してる話だったような記憶がかすかにある。どうして読むのをやめてしまったかのはもうよく覚えてない。きっとそれほどおもしろくなかったんだろう。あるいはジョン・バースに対する信仰心みたいなものが足りなかったのかも知れない。そういう風に考えてみると読みかけのままにしてる作品というのはこれは結構ある。たとえばトルストイは「戦争と平和」も「アンナ・カレーニナ」も途中までしか読んでない。ドストエフスキーの五大長編は好きで何度か読み返してるのにトルストイは駄目だ。吉本隆明さんの主著と言える「言語にとって美とはなにか」や「共同幻想論」も途中でやめてる。理由は難解すぎたからだ。「心的現象論序説」に至っては本すら持ってないけどこれはまあ途中でやめた本というカテゴリーには含まれないだろう。ミシェル・フーコーの「言葉と物」も途中と言うかほんのさわりしか読んでない。これも難解すぎる。ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」の柳瀬尚紀さん訳もさわりだけでやめてる。もっともこれを誰かが読破したという話は今まで聞いたことがない。はてなとかで探したら出て来るだろうか。ホルヘ・ルイス・ボルヘスは結構読んでるけど「幻獣辞典」は途中までだ。今調べたらこれも柳瀬さんの訳業だった。河出から文庫も出てるらしい。そう言えば河出文庫の黄色い背表紙にこのタイトルを見かけたことがあるような気もする。ステファヌ・マラルメの全詩集みたいな箱入りのごつい本も持ってるけどそれも読破した記憶がない。大体なんでそんなもん持ってるのか今となってはよくわからない。アルチュール・ランボーの「地獄の季節」は辛うじて最後まで読んでる。こう考えてくると途中でやめてるのは翻訳ばかりなのかなという疑問が浮かぶ。夏目漱石とか太宰治とか安部公房とか一時期ハマった作家は皆最後まで読んでると思う。大江健三郎さんには途中でやめてる作品があったかも知れない。よく覚えてない。もっとも僕は大江さんにはほとんどハマらなかった。そう言えば村上龍さんの「コインロッカー・ベイビーズ」は途中までしか読んでないな。なぜか読めなかった。ある時期から村上龍さんの作品は読むのをやめてしまったけどそれまでに手に取った作品は全部最後まで読んでるはずだ。最近の作家で集中的に読んだことのある吉田修一さんとか山崎ナオコーラさんとか青山七恵さんとか川上未映子さんとか長嶋有さんとかはまだ読んでない作品はあるにせよいずれも途中でやめてはいない。高橋源一郎さんや平野啓一郎さんも同様だ。どうしてこんなことを長々書いて来たかと言うと今読んでる短編集を読了しないまま図書館に返してしまおうかなと考えてるからだ。その言わば言い訳をここまでして来たということになると思う。なんかもうおなかいっぱいでこれ以上食べられないという状態に近い。せっかく半分までは読んできたんだけどね。一度読み始めたらとりあえず最後までは読むというのが自分ルールではあったんだけど今回は駄目そうだ。なので本のタイトルは明かさないし感想も書かない。作者名はこの前書いちゃったんだけど心ある皆さまは詮索せずにおいてくれるんじゃないかと期待している。つかそんなことに興味持たれないって。→自分。
今日のスイムはアップルウォッチがエラーを起こして変なカウントをしたため記録なし。とりあえず千メートルは泳いだ。