指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

アムニジアスコープ=記憶喪失鏡って何?

アムニジアスコープ

アムニジアスコープ

「アムニジアスコープ」を読み終えてとりあえず気にかかるのは、もちろんタイトルにもなっているアムニジアスコープ=記憶喪失鏡とは何かということだ。記憶喪失、これはまあわかる。スコープはたとえば赤外線スコープとかファイバースコープとか言うときのスコープととって、のぞきめがねみたいなイメージにしてみる。記憶喪失のためののぞきめがね。それを身につけると記憶喪失になるのぞきめがね。でもそのイメージは作中の「私」の姿とは正反対だ。「私」が記憶喪失だなんてとんでもない。「私」は過去に起こったことをきちんと憶えていて細部に至るまでクリアに語ることができている。過去に愛した女たちのこと、死んでしまった父親のこと、離れてひとりで暮らしている母親のこと、あるいは一見とりとめのないエピソード。「私」の語る記憶はどれもとてもしっかりしている。
だからここは解釈の方向を変えてみる。「私」のあるがままの姿が記憶喪失なのではなく、何らかの理由で「私」が記憶喪失の自分を心の中に思い描いているという風に。記憶喪失の自分を手に入れるために記憶喪失鏡を必要としているという風に。なぜ「私」は記憶喪失であることを思い描かなければならないか。それは「私」が記憶喪失からすごく遠いところにいてそのために苦しみ、記憶喪失だったらどんなにいいかと願わずにはいられないからだ。
それではなぜ記憶喪失でないことに苦しまなければならないのか。言い方はいろいろあると思うけど、「私」がまっとうすぎるほどまっとうな男だから、というのがここでの解答だ。「私」を拘束しているキーワードをいくつか挙げればわかる。曰く愛、曰く良心、曰くやましさ。「私」は愛を信じている。見ているこちらが恥ずかしくなるほど生真面目に信じている。そして今はもう失われた愛の思い出を後生大事に抱え込んでいる。同じように「私」は良心を信じている。自分と自分を取り巻く世界を救ってくれるものがあるとしたらそれは良心でしかないと、それが実現されるのは容易ではないと身にしみて知りつつも、信じている。なぜそれが容易ではないかと言えば、「私」自身がそれを実現させるほど強い人間ではないからだ。そこにやましさの生まれる余地がある。「私」は愛する女たちや死んだ父親や母親を結局は愛しきれなかったのではないかという疑いのために良心にやましさを感じている。そしてそのことによって自分自身をも破滅させつつあるのではないかと疑っている。至極まともな考えではないだろうか。倫理観はむしろ強すぎるほどではないだろうか。
そのやましさをほんの束の間でも押しやってくれるのが記憶喪失鏡の正体だ。実はここまで来てちょっと困っている。架空の映画の批評を書くことによって逆にその映画を実在させてしまったり、ストリップ嬢を誘拐したり、性的な幻想に耽ったり、手軽なセックスを繰り返したり、といった刹那的な行動自体が記憶喪失鏡そのものにも思えるからだ。それでよいとしてみる。すると記憶喪失鏡は結局は出来損ないの代物であることになる。それをのぞき込む度、「私」は記憶喪失どころか常に過去の記憶を呼び起こされそこに連れ戻されてしまうからだ。
ヴィヴとの初めてのセックスでヴィヴが発する「ノー」は「私」が稼働させている出来損ないの記憶喪失鏡に対するものととればとれる気がする。「私」が刹那の快楽のためにヴィヴを利用することを彼女は拒否している。利用されるのがいやと言うより、「私」の行動原理そのものがヴィヴには受け容れがたいのだ。なぜならヴィヴは過去に拘泥するより前に進むことを選ぶ人だからだ。実際ヴィヴは「私」とつきあっている間にも自分の作品をつくり続けている。「私」は過去のやましさから逃れるために極小化された現在に立つ。ヴィヴは未来を創り出すためなら過去を利用することも辞さない。作中のヴィヴの最後の作品がメモリスコープ=記憶鏡であることがこのことを示唆している気がする。
「私」に救いがあるとしたらそれはアムニジアスコープを手放すことだ。
作品自体が小説をめぐる小説になっていること、エリクソンの作品にしばしば見られるアメリカ史への関心、読みながら思い出したいくつかの小説や映画、などについて上の文脈に含ませることは、僕の力ではできなかった。