指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

あらかじめ失われているもの。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫) カズオ・イシグロ土屋政雄訳 「わたしを離さないで」
語り手のキャシーの身に自分を置いてみる。するともし自分なら介護人としてのキャリアを延ばして提供者になることをできるだけ先送りしたくなるような気がする。提供者となることは苦痛を伴うことでそれは死そのものより恐ろしいからだ。ましてや治療のための苦痛ならまだしも彼らに与えられているのは死ぬための苦痛だからだ。でもキャシーはそうは考えていないようだ。彼女は介護人として生きることと提供者として生きる=死ぬことの間に特段の区別を設けていないように見える。この倫理観はキャシーを「日の名残り」の語り手に幾分似せているかも知れない。だから僕らはキャシーを哀れんではいけない。キャシーのやり方でなら一見ダウンサイジングされたような彼女の生も一般的な生の比喩になり得るからだ。彼女は僕らと同じなのだ。
そう考えて来ると僕らもあらかじめ何かを失って生まれて来ることに気づかされる。十全ということはあり得ない。もちろんここで言う十全とは五体満足という意味ではない。五体満足だったとしても別の意味で誰もが何かを失っているのだ。それは裕福な父親かも知れないし優しい母親かも知れない。面倒見のよい姉かも知れないしロールモデルになるような立派な兄かも知れない。音感とか運動神経とか美しさ、賢さ、そういうものかも知れない。いずれにせよそれらはすべての人に完璧に与えられる訳ではない。そういう意味で誰もが何かをあらかじめ失っている。それが世界のあり方で世界のあり方は動かしようがない。
その哀しみに気づきながらそれを受け容れそれでも尚前に向かってアクセルを踏み続ける。キャシーはそういうことをしている。けなげでとても哀しい。でももしキャシーがいなかったら僕らは誰もがあらかじめ何かを失っていることの哀しみに気づけなかったかも知れない。