指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

文庫本で読み直し。

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

以前はよく、新刊で読んだ本を文庫化されたときにも買って読み返した。文庫化までにかかる時間は出版社やその作品によってまちまちだと思うけど、たいていは内容をほどよく忘れた頃なのでちょうどいい。そして文庫版を手に入れた後はわざわざ本棚の奥の方からハードカバーを取り出したりせず、もっぱら文庫版を読み返すことにしていた。ちょっともったいない気もしていたけど、文庫本の手軽さにはとても魅力があったからだと思う。

その習慣は結婚と共になくなった。自分が稼いだお金だからと言ってすべて自分の好きなように使えるわけではなくなったことがひとつ。それでなくても本棚に空きが無く家人が自分の本を買うのを控えるようになったことがひとつ。同じ理由から家人が僕の本を処分しようと虎視眈々と機会を窺うようになったことがひとつ。世の中には新刊では買わずに文庫化を待ったり、果てしない順番待ちの末に図書館で借りる方たちだっているのだ。まあ仕方ないことだと思っていた。

最近になって書店でブローティガンの「アメリカの鱒釣り」の文庫が並んでいるのを見た。瞬間、あ、買わなきゃと思い、いや晶文社版を持ってるじゃんと思い直した。大体「アメリカの鱒釣り」なんて買ってから数年の間に2〜3回読んだだけで、それ以来もう二十年近く読み返してないじゃん。いらないじゃん。だから買わなかったけど、そこに何か忘れ物でもしてきたような気持ちが結構長く残った。

あのとき買っていたら、と想像する。今頃僕は十数年ぶりに「アメリカの鱒釣り」を読み返していただろう。それを初めて読んだときのことを思い出したり、ブローティガンすべてを読み返したくなったり、高橋源一郎さんの作品を読み返したくなったりしただろう(高橋さんの作品については去年全部読み返したばかりなんだけど。)。じゃあうちの本棚のどこかにある晶文社版を読み返せばよさそうなものなんだけど、わざわざそれを探そうとは思わない。この辺は自分でもよくわからない。たぶん、それを読み返すくらいなら他に読むべき本が手近にたくさんあるだろう、とどこかで思っているせいだという気がする。

それにしてもなぜ今になって「アメリカの鱒釣り」なんですかね。「1973年のピンボール」の双子と同じ名前が出てきたのは(つか、この言い方は順序が逆なんだろうけど)、この本だったろうか。「西瓜糖の日々」だったろうか。やっぱ読み返すか。