指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

TVドラマ電車男、最終回。

拡大枠だったが早い時点でエルメスはスレを読んでしまった(ちなみにこれは回想シーンの羅列ともなり最終回にふさわしい気がした。)。僕はこれと、それに続くだろうエルメスと電車との仲直りや電車の告白までがこのドラマのクライマックスだと予想していたので、正直残りの時間に何が描かれることになるのかわからなかった。
エルメスと思いを通じさせることによって電車はスレの住人である資格を失った。当然電車はスレから出て行かねばならない。それが後半のテーマだった。電車と他のスレの住人たちは1000番目の書き込みが終わってスレが使用不能となるまで書き込みを続け、次スレを立てないことに決める。2ちゃんねるではあまりあり得ないことのように思えるが、演出として見ればこの方が盛り上がる気がした。旧スレの住人が新スレに誘導されないということは、毒男なり電車男なり旧スレの重要なキーワードを流用して同じ板に誰かがスレを立てでもしない限り、旧スレの住人はお互い顔も知らないままにコミュニケーションの手段を金輪際失うということだ。しかしそれでもよい、旧スレは電車の思い出のためにこれ以上引き継がれないほうがよいと判断したところが重要に思われた。
1000番目の書き込みは電車にゆだねられ、それを果たした電車とスレの住人たちはそこで散開することになった。そして電車はエルメスと共に姿を消した。
これをラストシーンとしたことにはどんな意味があるか。「電車男」はエルメスと電車との関係の進展を描くだけでなく、電車とスレの住人たちのやりとりをも同じかそれ以上のウェイトで描いてきた。そのことが改めて言われているように思われる。エルメスと電車の思いが通じたことを描いた以上は、スレの住人と電車とのやりとりの最後の姿も描かれなければならない。そうして初めて「電車男」のバランスが保たれる。それが表向きのモチーフみたいに思われる。
でも本当は、エルメスと電車が結ばれるだけでは結末として弱いと考えられたのではないだろうか。本当はその後も続いたであろうスレの成り行きにデッドエンドを設定した背景には、そんな考えが透けて見える気がする。
ところで最後にスペシャルが放映される告知があったんだけど、どんな内容になるのだろうか。