指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

昨日のに付け足し。

要するに、ライ麦畑のキャッチャーはホールデン・コールフィールドの描く抽象的なイメージだということだ。そこでキャッチされ続ける子供たちもまた抽象的だ。でもキャッチャーの姿の美しさは、子供たちを抽象的に捉えることから来ているように思われる。子供たちは抽象的であるかわりに普遍的であり、キャッチャーは普遍的な子供たちを誰ひとり分け隔てすることなくキャッチしてくれるもうひとつの普遍に格上げされるからだ。確かにちょっとだけ、気楽なもんだね、という気もする。抽象的で顔のない子供などもはや子供ではないと言えば言えるからだ。もちろんたくさんの子供ひとりひとりに深く関わろうとする立場が一方にあるからで、僕もできれば幼稚園でそういう立場に立ちたかった。でもそれは時間的にも労力的にも大変な作業で、自分の子と同じ組の子供たちの顔を憶えるくらいがせいぜいだった。そういう体験を踏まえてホールデンの描くキャッチャーを思うと、子供たちを一気に普遍に転化してしまうのもいいな、楽だし美しいなと実感として思えて来る。まあそんなようなことが言いたかった訳だ。