指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

鴎外を読もう。

昨日子供と千駄木まで数十分かけて散歩に行ったら、団子坂の上に観潮楼の跡があった。ちかくにしおみ児童館というのもあって、少なくとも明治時代まではそこから東京湾が見下ろせたのではないかと思われた。僕は森鴎外の熱心な読者ではなくて、「高瀬舟」とか「舞姫」とかすごく有名な作品だけを読み散らかしたに過ぎない。でも観潮楼が実際に海を見晴るかす位置に建っていたことがわかると、にわかに鴎外への親近感が湧いて来た。それで鴎外を読むことにした。うちに帰ってから調べると、文庫で四冊持っていることがわかった。ちなみに観潮楼の跡からは今はビルに阻まれ海などひとかけらも見えない。時代が変わった、と言うよりもう少し具体的に、資本主義のとてもとても高度になった果ての光景がそこにあるような気がした。立ちはだかった透明で分厚い壁の圧力が全身に感じられそうなほどだった。それは時間の壁であると共に高度にまた強固に秩序づけられたシステムの壁だった。
コミック「『坊ちゃん』の時代」を読むと、鴎外が樋口一葉の家のそばまで歩いて来るシーンがある。確か漱石も一緒にいたのではなかったか。一葉終焉の地という碑にも、子供とのいくつかの散歩コースの中のひとつで出くわす。そこから団子坂までは子供を連れて歩いても2、30分の道のりだ。実際に鴎外が一葉の家を訪れていても少しも不自然ではない。でも改めてそういうことに思い至ると、その一切がなんだかすごく不思議なことのように思えて来る。そしてその不思議さもまた、ただ単に明治と今という時間の幅から来るものとばかりは言えない気がする。
ともあれ、一通り鴎外を読んだら次は樋口一葉を読もう。初めは鴎外の住居跡や一葉の碑から始まったことだが、今やそれはもう少し違った意味合いを含んでいる。