指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

今年これまでで一番泣いた本。

鹿男あをによし

鹿男あをによし

個人的な都合で一昨日の日曜日一日で読み上げるしかなかった。それで駆け抜けるように読んで、とりあえず泣けて仕方なかった。ちなみにドラマ化されたものは見てない。ドラマだったら絶対に泣かない確信がある。文章だからこそ泣けた訳だ。
一ページ読めばわかるように漱石の「坊っちゃん」を下敷きにしている。でも「坊っちゃん」の文体というのはちょっと動かしがたいので、それを下敷きにしてもなんて言うか「坊っちゃん」の粗悪品しかできず、そもそも「坊っちゃん」にからめることが作者や作品にどういうメリットをもたらすのか疑問が深まって行くばかりだ。実際途中まではどこかゆるんだ感じがつきまとった。「鴨川ホルモー」と「ホルモー六景」を読んで作者は短編の方が得手なのではないかと思っていたので尚更だった。
ところがあるところから文体ががらっと変わる。語り手自身の心象描写が無くなると共に「坊っちゃん」の気配が影を潜め、文体が緊迫したリズムを刻み始める。そしてそれが一旦始まると息をもつかせぬ速度で一気にひとつの終わりまで持って行かれる。ここでの場面の転換や省略は作者のズル、あるいは負けととられても仕方ないはずなのに、それさえもスピードを加速する好材料となっていて、読者は次第に摩擦熱のような熱さを胸の中にこもらせて行く。そしてその熱さが頂点を迎えたときに、涙が出てくる仕組みになっているように思われた。
それでも物語は終わらずに元の「坊っちゃん」レベルに戻って続く。最後まで読んで、やはりこの作品が「坊っちゃん」を下敷きにする必要があったかどうかが疑問として残る。ひとつの文体が持続されなかったことは作品の傷のような気もするし、そんなことは百も承知の作者があえて文体を使い分けたのだという風に考えれば、少なくともその方法はすごく有効だったような気もする。ひとつの文体を持続することがそんなに重要かという自問もあるし、泣けるからと言って優れた作品とは限らないぞと言う声もどこかから聞こえる。