指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

ピンチョンを読まない間に。

ヴァインランド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第2集)
トマス・ピンチョンの翻訳を読み通したのはこれでやっと三冊目だ。他に「競売ナンバー49の叫び」と「スロー・ラーナー」を読んだ。「V.」と「重力の虹」はどちらも随分前に買ったけど途中で挫折している。と思う。読んだ二冊にしてもどんな作品だったかと言われるとまるで憶えていない。要するにまあ「ヴァインランド」で初めて読んだも同然だ。でもいつかはきちんと読まなきゃという強迫観念のようなこだわりをこの作家にずっと抱いて来た。そして読まない間もこの作家についていろいろなことを考えて来た。たとえば作者の名前だけどThomasをなぜトーマスとせずにトマスと表記するんだろう。ピンチョンという国籍不明な姓と相まってこのトマスという表記がすごく近寄りがたい雰囲気を醸すんだけど。とか、そういったくだらないことだけど。
それで「ヴァインランド」だけど一言で言うとすごくおもしろかった。と言うか、読んでいる間はすごくおもしろく読めた。もちろん個人的には共感よりも違和感を仲立ちにしてその世界に近づいて行くしかなかったけど、少なくともピンチョンを読まない長い間に自分の頭の中だけでむくむくと育ちモンスターみたいになってしまった作者のイメージはそこには無かった。もっとずっとくだけていて軽く読みやすい印象だった。
語りの入れ子構造みたいな言い方はある種の小説を評す言葉としてすでにステレオタイプみたいになっているけど、「ヴァインランド」は本当に語りが折れ曲がり時制が飛んでいて、今語られているのがどの時点での誰の話なのかがよく考えないとわかりにくい。しかも道具立てが、少なくとも70年代になってやっと自我に目覚めた年代からすると古い。古くてひどく胡散臭い。それは60年代が60年代を生きたものにだけ分け与えたある種の過激な希望が結局は潰え、風化し脱色された後の胡散臭さだ。その風化と脱色には十年以上がかかり舞台は1984年だ。彼らが共有した夢はたとえば僕らの世代が一度も夢見ることを許されなかったほど大きかった。ちょっと先にはユートピアさえ垣間見えるほどだった。でもアメリカン・ドリームはアメリカのシステムを侵犯しない範囲内にしか無い。システム自体を脅かす夢はそれがどんなにアメリカ的な大きさを持っていようとも結局はシステムによってつぶされる。周到な後処理がなされ不満分子は様々なやり方で手なずけられる。中にはすごく屈辱的に手なずけられるものもいる。
とかこういうことは書いてもあまり意味がないかも知れない。つまり、自分の狭い関心に沿って作品を切り抜いているだけのことだから。個人的にはピンチョンを読まない間にふくれあがったピンチョン像を少しだけ壊せたこと、とにかくおもしろく読めたこと、それが収穫だった。