指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

「ブラッド・メリディアン」はコーマック・マッカーシーの代表作か。

ブラッド・メリディアン
ザ・ロード」の文体は国境三部作の硬質な印象に比べると随分開いているように感じられた。それは「血と暴力の国」も同じだ。「ザ・ロード」を国境三部作の文体で読みたい気が少しだけした。でも作者はそれを選ばなかった。理由は想像するしかないけど、物語自身がその文体を必要としたと考えると個人的には納得が行く。「ザ・ロード」の物語の明快さは驚くほどだ。それは少年の持つ、あの世界を生き抜くには圧倒的に不利な幼さを中心に据えたからだ。国境三部作の主人公たちを描くのと同じような文体ではその幼さを描くことは到底できなかったに違いない。逆に「ザ・ロード」から振り返って眺めると国境三部作(三つの作品をひとまとめにしてしまう手荒さはいずれなんとかしなければならないけど。)は文体の力が強すぎるようにも思われる。でもそれは明らかにひとつの到達点であり、何かを果ての果てまで推し進めた極限の姿をなしている。作者は、一度はそういうところへ行ってみたかったと思われる。
ここから、国境三部作でひとつの文体を確立した作者がそれを意識的に解体する形で「血と暴力の国」や「ザ・ロード」を書いたという物語を個人的には描いていた。マッカーシーはおそらく基本的に時系列で訳されて来ており、僕自身もマッカーシーを訳された順番で、つまり時系列で読んだ。それで自分の描く物語にはこれまで破綻が無かった。
「ブラッド・メリディアン」を読み始めるとすぐにわかると思うけど、この作品の前に国境三部作の文体が達成されたはずがない。その文体には確かにマッカーシーの「らしさ」が感じ取れるけど、文体を形づくる作者の意志は国境三部作よりもはるかに後退した地点で何か別のものを目指しているように感じられる。調べてみると実際にこの作品は「すべての美しい馬」より七年前に出ていた。
そこで個人的にどうしても引っかかるのは、これをマッカーシーの代表作と呼んでいいのかということだ。確かに出たばかりの頃の本国ではそれでもよかったかも知れない。でも国境三部作や「ザ・ロード」を知った後になってもこれを代表作と呼ぶのには無理がある気がする。おまけにこの作品の衝撃が「ザ・ロード」を越えると帯にある。描写の残虐さのことを衝撃と言っているならわからなくもないけど、それが本質をはずしていることは論を待たない。これまでマッカーシーの翻訳作品には一度もがっかりしたことが無かった。それでガードが甘くなり作品より先に帯の惹句を目にしたのが失敗だった。だまされたような読後感になってしまった。
ここまでを前置きにして「ブラッド・メリディアン」の中へ入って行く。まず少年が主人公なのだがそれがある隊に加わって行動し始めると、少年に関する描写が極端に少なくなり隊全体に関する描写に埋もれてしまうというちょっと不思議な方法がとられている。隊が休止していたり少年が隊からはぐれてしまったときのみ少年にフォーカスが当てられる。隊はかなり残虐な目的のために組織されたもので実際に残虐な行為に及ぶが、その中で少年がどういう役割を果たし何を感じてどう成長したかということはほとんど伝わって来ない。まるで少年はその隊の中で透明になってしまったかのようだ。
もうひとつすぐに感じられることがあって、それは前述の隊に加わった者たちは今後長い間生き延びられるとは到底思えないほど心がすさんでいるということだ。残虐なことを好んで行っているように見えるが実はその底に何がどうなったって別に構わないといった無気力とかニヒリズムとかいったものが透けて見える。実際、隊のメンバーの多くは隊と運命を共にするかのように死んでしまう。そこからまぬがれたのは三人だけで、少年と「精神薄弱者」と「判事」だ。もうひとり「元司祭」を加えてもいいかも知れない。「精神薄弱者」は隊の中にあって明らかに暴力に荷担していず持ち前のもの以外に心の損傷は無かった。「元司祭」には曲がりなりにも信仰の名残がある。少年は暴力に荷担していたと見なすしかないがその描写は無かった。そして「判事」は、この作品の中心にいる悪の権化だ。
「元司祭」の信仰と「判事」の悪はずっと対立していた。少年はどちらかの側につくよう物語から暗にそそのかされていたかも知れない。でも少年は「判事」には嫌悪しか感じていなかったようで、むしろ「元司祭」の側に立っていたように思われる。それだけなら話は簡単だが、問題は「判事」が少年を自分に親近したものと見なしていたことだ。お前を実の子のように思っていると「判事」が少年に言うとき、そこには「判事」一流の韜晦とばかりも言えない響きが伺われる。ルークに話しかけるダース・ベイダーみたいに。
では「判事」が少年に親近する根拠とは何か。おそらく個人としての輪郭の強さみたいなものだったと思う。群集心理みたいに雪崩を打って残虐行為に加わる隊の面々の中で、実際にそうしたかどうかは別にして「判事」と少年だけは踏みとどまろうと思えば踏みとどまることのできる個人としての判断基準のようなものを持っていた。イメージとしてはそんな感じになると思う。ただし少年には意識的に悪を引き受けるような構えが無かった。このことが「判事」の少年に対する憎しみと殺意の根拠になったと個人的には考えられる。ちなみに「判事」の悪は底なしで、平野啓一郎さんの「決壊」や川上未映子さんの「ヘヴン」に描かれる悪の非倫理とつながる感触がある。
最後にこの作品の文体に込められた作者の意志だけど、ある強いイメージを点綴して行くことにあったのではないか。ただし作者が思っている以上に各々のイメージに差があり過ぎ、たとえば自然描写ならそれなりに備わるべき描写の物語が切れてしまうほどに描写の全体量が足りなかった。そんな事態を思い描くと自分なりにはうまく納得できるような気がする。そしてそういう意味で言えば「ブラッド・メリディアン」は充分に意欲的な作品で、それはこれまで見知って来たマッカーシーの像に似つかわしい。