指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

原作をどう扱うかということについて。

 芦原妃名子さんの今回の一件に関してはそう詳しく知らない。でもまあ問題のありかについてはおおよそ見当がついてるつもりだ。要は原作を扱う上でどれだけそれに忠実であるべきかあるいは忠実でなくてもよいのかということだと思う。大昔まだ学生だった頃に素人劇団から頼まれてオリジナルの脚本を書いたことがある。結局稽古の途中でその劇団は仲間割れして解散になってしまい上演の日の目を見ることはなかった。そのことを謝罪する席で人数分コピーされた台本を返してもらった。ちょっと開いてみたら割にびっしり書き込みがしてあって驚いた。そのほとんどが台詞の改変で一応の作者としてはその変わり果てた姿にかなり傷ついた。こちらとしても練りに練って書いたつもりのひと言ひと言だったから。と同時に素人劇団に脚本を提供するなんて結局はそういうことなんだと深く納得もした。ゼロからは何も創り出せないくせに土台があれば寄ってたかってそこに自分たちの爪痕を残そうとする。そこには大した才能もない青二才たちの自己顕示欲の醜さがありありと表れていた。(まあ才能がないという点では僕も同列な訳だけど。)だから原作というのは心ない誰かによっていじくり回されてしまうものだという諦めを僕はどこかで持っている。でもその諦めは普遍的ではないとも思っている。個人的にそう思うだけでもちろんそうは思わない人もいていい。当たり前のことだ。たとえば大好きなテレビアニメシリーズ「赤毛のアン」は村岡花子さんの翻訳にできうる限り忠実につくられている。レイチェル・リンドのおばさんにアンが悪態をつくシーンで「でぶでぶっとくて不格好で・・・」という台詞がある。村岡訳では「でぶでぶ太って不格好で・・・」となってるんだけど一読すると確かに「でぶでぶっとくて不格好で・・・」と読んでしまいかねない。意味も大体合ってる。新潮文庫版の村岡花子さん訳「赤毛のアン」をお持ちの方は機会があったらチェックしてみて下さい。僕はこの誤読が割と気に入ってるんだけど話が逸れた。要するに僕の味わった諦めは諦めとしてそれとは別に原作にできるだけ忠実につくられたものの方が好感が持てる例としてテレビアニメ「赤毛のアン」を取り上げた次第だ。そこには原作者に対する背筋がすっと伸びたリスペクトが感じられる。家人が芦原さんの件に非常なショックを受けてるのには自分もまた作者のひとりだという思いが強くあることがとても大きいんじゃないかと思う。しかも近く家人の小説がコミカライズされることになっている。原作者としての家人の立ち位置は芦原さんのものとそう大きくは違わないのかも知れない。まあ読者の多寡とか売り上げとかは随分違うかも知れないけどそれはさておいて。
 今日のスイムは三十五分で千メートルと自分なりには苦戦となった。調子の良し悪しは泳ぎ始めてみないと本当にわからない。投げてみないとわからないピッチャーや走ってみないとわからない長距離ランナーと同じように。ただ一日千メートルは死守したい。明日も。