指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

祖父と孫。

子供は僕の父親にとてもなついている。これは3才を過ぎてからのことで、それまでは帰省してもあまりなつくということがなかった。しばらく一緒に遊んでいても、遅かれ早かれ泣き出して父親や母親を困らせ、家人の出番となるのが常だった。

それ以前、2才になる前はそもそも一緒に遊ぶということ自体ができなかった。この段階では父親より母親の方が子供にうまく近づけていた。昼寝のときなど、何時間も飽きずに抱いていた。これは驚異的なことに思えた。僕なんかせいぜい30分も抱いて子供が寝てしまうと、布団に寝かせることにしていた。もちろん限られた時間の中でできるだけ孫に触れていたいという気持ちはわかるけど、それにしてもよく疲れないものだと思った。

孫に対する母親と父親の接近度が逆転したのは、やはり言葉が通じるようになったことがきっかけのように思う。それまで父親は孫に近づこうにも近づく方法がなかったのだ。抱っこしていてもいつ泣き出すかわからない。泣き出したら自分ではどうしようもない。遊んでいるところにちょっかいを出しても無視される。だから何となく遠巻きに眺めているような立場に甘んじるしかなかった。

しかしひとたび言葉を介して近づけるようになると、父親はそれまでの鬱憤を晴らすかのようにがんがん近づいていった。一年も経たないうちに、父親は孫に対し不動の地位を占めるに至った。おそらく家人ですらその前にはかすんで見えるほどだと思う。僕としては父親と母親をセットにして同等くらいに慕ってほしいのだが、今回の帰省ではもはやそんなの不可能だとわかった。

父親のやり方で家人や僕と違うのは次のようなことだ。まず自分からは決して遊びを中断しない。孫の方で飽きて別のことをしようと言い出すまで、辛抱強く遊んでやっている。それからできるかぎり駄目と言わない。本棚から本や小物を引っ張り出そうが、引き出しを開けて中を物色しようが邪魔をしない。こう接しられると孫の方も変なストレスがたまらないのか、普段家人や僕に対してするような業腹と思える要求はしない。孫のためならたいていのことは許可するのだ、という父親の覚悟がいい効果を生んでいるように思える。

それからあえて母親と比べると、やっぱり男同士でわかりやすい部分があるように思われる。たとえばクルマや電車の話題にしても父親の方が無理なくついて行く。また必要があれば事前にひとりで調べている節がある。

本当は終始父親のように接していれば、子供はのびのび育つのかも知れないな、とどうしても思ってしまう。でもあれを365日見習っていては他のことなど何もできない。それに当の父親でさえ、365日あれが続くかどうかわからない。365日子供と接するということは、家人と僕が担っているのと同等の責任を、父親も担わなければならないということだからだ。

それでも自分が自分の孫に、たとえ数日の間でも父親と同じように接することができるかと言うと、はなはだ心許ない。そう考えると父親はやはり、いい祖父と言うしかない気がする。