指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

「手記だ、当然のことながら」その2。

昨日の記事を読み返してみたが素面で書いたとは思えないほどわかりにくかった。正直申し訳ない気持ちだが乗りかかった船なので今日は続きを書く。と言っても一発逆転ですべてにすっきり筋が通るようなことにはならない気がする。
さて本のこの位置にある「手記だ、当然のことながら」を題辞のように読んでしまうとどうなるか。もちろんこれから始まるのは手記だと思うことになる。事実そこから先にはふたつの手記が待っている。ひとつはアドソの手記を手に入れる経緯を述べた手記。もうひとつはアドソの手記。前者の語り手は「私」で、後者の語り手はアドソだ。では「手記だ、当然のことながら」という言葉の語り手は誰か。目次に従えばそれは「私」だ。「私」が書いた手記のタイトルが「手記だ、当然のことながら」なのだ。でもここではこの言葉を題辞であるかのように誤解していることが前提となっている。そうするとこの言葉の語り手は作者自身だという結論がおびき出される。*1そしてその結論に従えば、「私」が書いた手記もアドソの手記もいずれも実は作者自身の手記だ、ということになる。そのことを知らせるためわざわざ「手記だ、当然のことながら」と断り書きを入れているように見えてくる。そんなことはありうるか。
ありうると思う。作者が「私」とアドソのそれぞれの手記に対して、それらは自分の手記なのだと宣明している事態。もちろん「私」の手記もアドソの手記も「手記」の本来の意味からすればそれぞれ本人たちにしか書けないはずだ。それを本人たちでなく作者が書いているとすればそれは手記ではなく別のものだ。何か。もちろんフィクションでしかあり得ない。「手記だ、当然のことながら」は、だから字面とは全く逆の意味にとらねばならなかった。「フィクションだ、当然のことながら」という意味に。これに気づいたとき、僕はすごく感動した。我が意を得たりと思った。
でもさ、結局誤読じゃん。うーん確かに。でもね、これは作者の意図的なミスリードかも知れないんだな。だってさ目次そんなに詳しく読むかい?昨日と今日の記事はその問いにあなたがどう答えるかでリアリティーが大きく左右されることになります。それに字面と字義が正反対の言葉なんて、いかにも記号学者が喜んで使いそうなトリックだと思いませんか?

*1:作者とウンベルト・エーコがどれほど重なりあるいは異なっているかという議論もあると思う。個人的には少なくとも両者をまったく同じものと見なすのは誤りのような気がするが、いずれにしても現在の論旨にこの話を導き入れるのは煩雑に輪をかけるだけのように思われるので、ただ作者とだけ呼ぶことにする。また「私」と作者を同じものと見なす読み方はてんから除外して考えている。