指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

「手記だ、当然のことながら」。

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

昨夜は三日しかない営業日の最後の日ということもあり忙しかったのと遅く帰ったのとであやうくブログを書き逃すところだった(ってほとんど書けたことになってないけど。)。
それはさておき一昨日まで書いていた「東京奇譚集」に関して考えるうち、よく似たことを考えたことがあるなと気づき「薔薇の名前」を思い出した。実はこの作品は翻訳が出たときに一度読んだきりで、いつか読み返したいと思いながら果たせずにいる。ただ一箇所だけ大変気にかかったところがあり、それについては結構長いこと考え続け自分なりの結論を得た。それについて書いてみようと思う。
例によらず今回は手元に本がある。きっかけは同書上巻の目次から始まっている。スペースを無視してこれを再現すると以下のようになる。言うまでもないかも知れないけど原文は縦書きだ。

* 上巻 *
手記だ、当然のことながら - 11
プロローグ - 21
第一日
 一時課 僧院の麓に着くと、ウィリアムが鋭い推理の一端を窺わせる ・・・36
 三時課 ウィリアムが僧院長と(以下略)

 引用文中、算用数字はページ数に当たっている。目次が終わると1ページの空白の後、見開きの左側に、ページの中央上よりに「薔薇の名前 上」とだけ書かれたページが現れる。そのページをめくると次のページには装幀者の名前が書かれている。そしてその次の、やはり見開きの左側のページ中央上よりには「手記だ、当然のことながら」とだけ書かれている。さらにそのページをめくると空白の1ページの後、また見開きの左側のページから何やら本文が始まる。それには「私」がプロローグ以降に始まる修道士アドソの手記をどのように手に入れたかといったそれ自体手記と呼んでいい話が書いてある。
大変わかりにくい説明で申し訳ないのだが、要するにこういうことだ。目次が終わってページをめくると本のタイトルがあり、そのページをめくるとタイトルの下から「手記だ、当然のことながら」が現れ、さらにページをめくるとその下から手記を手に入れる経緯を書いた手記が現れる。いや、ここまで説明するだけですっかり疲れた。
ところでみなさんは本の目次というのを読まれますか?僕は読まない。短編集なら短編のタイトルの羅列くらいは眺めるけど、「薔薇の名前」みたいに目次が本の内容に触れている場合などは必ず読み飛ばす。本文以外の前知識というのをできるだけ入れずに本文に接したいからだ。
実はこの読み方のせいでちょっとした誤解が起きた。目次をしっかり読めば「手記だ、当然のことながら」は「私」がアドソの手記を手に入れた経緯を述べた手記のタイトルであることは明らかだ。しかしそうでないとこの言葉は、あたかも天から降ってきた語り手のわからない題辞みたいに見えるし、事実僕はそのようなものとして読んだ。そしてその誤解は作者自身が多少は意図したものでもあるように思えるんだけど、時間がなくなってしまいました。電車男の最終回について書けば書き終えられたかな。今日はこれから下北沢まで舞台を見に行く。続きはまた明日にでも。