指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

スティーブン・ミルハウザーの梯子。

ここ何日かのkeiko23さん*1のブログに触発されて、スティーブン・ミルハウザーについて書いてみたいと思った。但しそれに当たって作品は一作も読み返していない。まあ読み返したところでどうせ同じようなことしか書けない気がするから構わない。
ミルハウザーはディテールを非常に細かく書き込む作家だ。そしてそれにつられてうかうか読み進むうちに、いつしか読者は現実と虚構を分ける線を踏み越えどこかあり得ない場所に連れて行かれる。ここはどこだ?と不思議な気持ちであたりを見回してみる。そこはすでに夢の中だ。あるいは夢のようにリアルに網膜に映る幻の中だ。下を見下ろすとそこには確かに梯子のようなものが見える。その最上段に近い位置で読者は虚空に身を乗り出している。自分は確かにこの梯子をここまで昇って来たのだ。でもどのあたりから幻の中に入り込んでしまったかがわからない。もしかしたらはじめの一歩からすでに霧のような幻に取り巻かれていたのかも知れない。
この瞬間のめまいに似た感じがとても好きだ。どこまでが現実でどこからが虚構かがわからなくなる感じ。いやそもそも現実と虚構の間に区別などあったのだろうかと自問するときの感じ。でも読者は結局梯子の上からどちらかへ踏み出さなければならない。現実の方へか、虚構の方へか。虚構を選べば、世界は虚構に覆いつくされる。そこには言葉だけがある。言葉以外には何もない。そこまで導く梯子を、ミルハウザーはいつも丹念に組み立てている。
ミルハウザーの小説でもうひとつ好きなところがある。それは作者自身と同じ情熱を持って主人公たちも梯子づくりに打ち込んでいることだ。そして主人公たちは他ならぬその情熱のために決まって悲劇に誘い込まれる。彼らの極限までの情熱は彼ら自身を深い孤独におとしいれ、それが悲劇を呼び寄せずにはいないからだ。ある者は妻との仲がどうしてもうまく行かない。ある者は自らの作品のために殺人に手を染める。個人的にはそれを「額に刻印のある芸術家」の悲劇になぞらえたい気がしている。彼らは「トニオ・クレーゲル」の子供たちなのだ。自分をトニオになぞらえるには手持ちの札が少なくなり過ぎたが、トニオの子供たちには親近感を禁じ得ない、それが今僕がこれを書いている場所だ。

*1:id:keiko23さん。