指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

すべての男は消耗品である。

ハバナ・モード (Men are expendable (Vol.8))

ハバナ・モード (Men are expendable (Vol.8))

村上龍さんの「ハバナ・モード」は、日本語ではそう書いてないようだけど、「すべての男は消耗品である」のVol.8ということになると思う。このエッセイのシリーズは一作目から読んで来た。いろいろあった。「俺はもう知らんぞ。」といういらだちと諦めの時期、映画「KYOKO」の時期、「愛と幻想のファシズム」を書いたことがきっかけに(多分)なった経済への知識をフルに動員した時期など。そういう意味では、よきにつけ悪しきにつけ村上さんのその時々の興味が、このシリーズで一望できる。
本作は「半島を出よ」の執筆と併走している。ただし今までのシリーズと異なり、読み進むに従って時間をさかのぼって行く構成になっている。最初が時期的に最も新しく、最後が時期的に最も古い。これはVol.7までとは逆の順序だ。もしかしたら村上さんは、「半島を出よ」の成立過程を収めたものとしてこの本を読まれることが、いやなのかも知れない。
村上さんのエッセイは読むのが本当はキツいこともある。なぜもっと努力しないのか、と言われている気がするからだ。いや努力という曖昧な言葉は実は僕の翻案であって、本当はもっと具体的でリアルな物言いがされている。なぜ具体的な自分の将来像をイメージしてそれに向けた前進をしないのか。このままではいけないということがわかっていながらその危機感をどうしてごまかしてしまうのか。これだけの資格を取得した階層はこの年でこれだけのメリットを社会から受けているのに。等々。キツい。
実はこの突きつけ方が読者を結構遠ざけているのではないかと密かに思っている。前にやっていたメーリングリストでは村上龍さんを好んで読む人は160人中僕を含めて2〜3人だった。読書をテーマにしたMLでありながらだ。あからさまに嫌いと言ったり言外に嫌悪感を含ませたりする人の方がその何倍もいた。考えてみるとここ最近の村上さんの作品は小説であれエッセイであれ常に読者に何かを突きつけている。つかデビューから一貫して村上さんは突きつける作家なのかも知れないとさえ思う。それにつきあうのに骨が折れるという人が割と多いんじゃないかと想像される。
僕はいつも自分の想像力を両手で握りしめ、作品と切り結ぶ戦闘のようなイメージで村上さんの作品を読んでいる。やるかやられるか、勝つか負けるかだ。そんな風にキツさを力業で押しのけながら読み進めてはじめて、そこに何かとても大切なことが書いてあることに気づける気がする。そしてそれに気づかずに済ませるのは本当にもったいないことだと思う。