指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

「コレラの時代の愛」の、コレラの時代とはいつか。

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

ウィキペディアによるとコレラには大きく二種類があり、それぞれアジア型(古典型)、エルトール型と呼ばれる。アジア型コレラの世界的な大流行は1817年が最初らしい。それ以前にもコレラと思われる悪疫の記録はあるが、いずれも局地的なものだった。1884年にドイツの細菌学者コッホがコレラ菌を発見して以来は世界的に流行することはなくなった。一方エルトール型コレラ1906年に発見され1961年に流行が始まって以来、今世紀に入っても流行が見られる。
いずれにせよコレラとはそれほど古い病気ではない。その最初の流行の段階でも世界のかなりの部分がすでに近代に足を突っ込んでいると考えた方がいい。それは本作の舞台と考えてほぼ間違いないコロンビアでも同じだったと思われる。
そうしたコロンビアの中でも特にフベナル・ウルビーノ博士は近代の申し子のような描かれ方をしている。ヨーロッパの最新の文物に造詣が深く、職業は医師で科学的なものの見方(それが現在の科学の水準から見てたとえ間違っていたとしても)をするし、市民活動などにもひどく積極的だ。これらは作中で強調されすぎるほど強調されている気がする。
これに対してフロレンティーノ・アリーサは学識もなく、詩作をするけど独学で、五十年以上にわたってフェルミーナ・ダーサを待ち続ける。と言ってもその五十年の間には行きずりの恋や売春宿、束の間続く愛人など女性関係には枚挙に暇がない。ただしそのことがいっかな振り向いてくれないフェルミーナ・ダーサに露見することは恐れている。また、仕事に使う文書を書くのにも文学調の文体が捨てられないロマンティックな人物だ。
コレラの時代の愛」がフベナル・ウルビーノ博士の愛ではなくフロレンティーノ・アリーサの愛を指しているとすれば、コレラの時代に生きているのはフロレンティーノ・アリーサだということになる。と言うのも、フベナル・ウルビーノ博士の愛は普通の近代的な愛で、彼の愛をわざわざコレラの時代の愛と呼ぶ理由がわからないからだ。ではフロレンティーノ・アリーサが生きているコレラの時代とはいつか。
それは近代の中にわずかに残った近代以前の時間だという気がする。同じ時間をフベナル・ウルビーノ博士(そしてその他大勢)は近代的な時間と感知し、フロレンティーノ・アリーサだけが近代以前の時間と感知している。そう仮定すると彼が待ち続けた五十年あまりを説明するのに一番無理がない。近代の時間の流れの中にそこだけ何かの間違いのように前近代の時間が流れ出し、その中心にフロレンティーノ・アリーサがいるというイメージになる。それがコレラの時代の正体だと言いたい訳だ。
フェルミーナ・ダーサは前近代のフロレンティーノ・アリーサに最初惹きつけられ、後に彼を捨てて近代的なフベナル・ウルビーノ博士を選ぶ。博士の死後は結局またフロレンティーノ・アリーサの愛を受け容れることになる。そしてそれが彼女の(おそらくは)ハッピーエンドとなる。
ラスト・シーンの永久運動を思わせる決断は、フロレンティーノ・アリーサの決して近代に達したくないという意志の表れだと読むとうがちすぎになるだろうか。でも新たに結ばれたふたりが、どこにも辿り着くことのないコレラの時代に向けて引きこもるように消えて行くイメージは、とても魅力的なように思われる。
作者は近代の中に破れ目のように現れる近代以前の残滓のような場がお気に入りなのではないだろうか。あるいはそうした場の発見者ないし考案者なのではないだろうか。そのことはもしかしたらこれまでの作品にもはっきりと表れていたのかも知れない。