指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

アリョーシャ観が変わる。

今回「カラマーゾフの兄弟」を読んで以前と最も変わったと思われるのがアリョーシャに対する見方だった。若い頃はどういう訳か偽善とか偽悪とかいうことに過剰にこだわりがあったらしく、それは多分当時の未熟で自信の持てない世界観によって今よりも人をずっと理解しがたいもの、相対的なものと見なしていたせいだと思われるが、ふたりの有名な主人公にどうしても共感することができなかった。ひとりはライ麦ホールデン・コールフィールドで偽悪に見えた。もうひとりがアレクセイ・カラマーゾフで偽善に思えて仕方なかった。「カラマーゾフの兄弟」のキャラクターの中では、直情径行で自分の倫理と現実の自分の落差に苦しむミーチャに真っ先に共感した。またイワンの神を否定する理屈も一方にヒューマニズムを秘めていて好感が持てた。でもアリョーシャはどうにも優等生過ぎた。特にゾシマ長老の腐臭にショックを受けてからは、信仰に重大な障害を秘めているはずなのに世俗で敬虔な信者のように振る舞っていてすごく胡散臭い気がした。
ただし自分でもそのアリョーシャ観には問題があるのではないかと思われ、今回はゾシマ長老の腐臭にショックを受けてから修道院を出るまでの記述を特に丹念に読んだ。すると驚くべきことがわかった(と言ってもそんなことに驚くこと自体が自分の読みの杜撰さを証明するものでしかないんだけど。)。まず、アリョーシャがゾシマ長老の腐臭にショックを受けたのはゾシマ長老の死と共に何か奇跡のようなものが起こるという噂を当のアリョーシャも信じて疑わなかったためであり、彼の神への信仰にはいささかも揺るぎがなかった。だってそう書いてある。またその直後自暴自棄になったアリョーシャが、ラキーチンにそそのかされておそらくは性的に堕落させる意図を持ったグルーシェニカの家へそれを承知で行くが、そこでほとんど初めて会ったグルーシェニカの、噂とは正反対の心の美しさに癒される。それをきっかけにしてアリョーシャは大地に身を投げ出して涙と法悦にひたることができるのだが、そのシーンの意味をまるで見過ごしていた。なるほどここを読み落としていた訳か、と気づくと、修道院を出たアリョーシャは全然偽善に思えなくなった。そしてラストシーン、イリューシャの埋葬の後の子供たちとアリョーシャのシーンがまぶしいほど清らかで美しいものに思えた。もちろんその前のイリューシャとスネギリョフのあれこれで一度泣かされることになった訳だけど。
以上は読み方の上での大変個人的な転回なので、おそらくどなたの共感もいただけないに違いない。お前何読んでたんだよ、こんなエントリは早い話が自作自演じゃないかよ、と言われたら返す言葉も無い。
なのでおまけにひとつだけ気づいたことを書くと、イリューシャの遺体からは腐臭がしなかったとわざわざ書かれている。これはゾシマ長老との対比と思われるが、ゾシマ長老よりイリューシャの方が苦しみが大きく、だからイリューシャの方が偉大だという考え方が裏にあるような気がする。あ、別に目新しくもないですか。

追記
いや違うな。ゾシマ長老がどれほど敬虔な修道苦行僧だったとしても、イリューシャの方がはるかに罪が軽かったということだ。こうとると、イワンの考え方の裏付けにもなる。