指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

自同律の不快や母と娘の確執。

母の発達 (河出文庫―文芸コレクション)

母の発達 (河出文庫―文芸コレクション)

今読んでいる「死霊」に言寄せて言うとたとえば「自同律の不快」という主人公三輪与志が感じる不快は簡単に理解できるものではないのではないかと思われる。具体的には「私は私だ。」と言い切ることが三輪与志にとって不快と感じられている。「私は」という主辞と「私だ」という賓辞の間には広大な距離があってそれをつなぐことは非常に困難だというようなニュアンスも現れる。随分昔のことになるけど、読書の先達に自同律の不快が追体験できますかと尋ねたことがある。できるという答えだった。それは生理的な不快なのですか、それとも論理的な不快なのですか、とさらに問うと、生理的な不快だということだった。ああこれは、この人は本当にわかっているんだなと思ったが、少なくともその後の彼の説明はうまく理解できなかったようでそれ以降の記憶が無い。
(三輪与志の感じる「気配」や、「虚体」といった概念が、おそらく私から私をマイナスしたときに余ってしまうものであり、逆に言うと私を私にぴったりと重ね合わせるにはそれらを押しつぶす必要があるのだが、それらを押しつぶすことが三輪与志の不快に直結していると推定したらいいだろうか。けど、それは今日の話題から言うと余談だ。)
生理的が無理ならせめて理屈の上だけでもそれはこういうことなんだとわかっておきたい。今回「死霊」を読み始めた一番の理由がそれだ。そして同じようにせめて理屈の上だけでもわかっておきたいことがもうひとつ現れた。と言うか、正確にはすでに現れていたんだけど放ってあったものが再び立ちはだかった訳だ。
昨日だったかasxさんが笙野頼子さんの「母の発達」について感想をお書きになっていた。「母の発達」は個人的に長い間の躓きの石でそれは母と娘の確執というのがどうしても理解できないからだ。そこでasxさんが作品に近いところで感想をお書きになっているのに大変失礼なことだが、自分の生活実感にまで戦線を後退させたところからコメントを述べた。asxさんは僕の立つ位置までいらっしゃる労をとられた上でレスを下さった。具体的には「妻でも母でもなく女でありたい」という言葉をめぐってだった。
この言葉を自分なりに生活実感と理屈で追いつめて行くとどうなるか。まず自分の側に最大限引きつけて「夫でも父でもなく男でありたい」と言い換えてみる。それ自体すごく気持ち悪い言い回しに思える。自分の倫理観の何かにそれは抵触している。そこを我慢しながら言葉の意味をたどると、妻や家族を顧みずに男としての自分に正直でありたい、あるいはそういう場面があってもいいということになるように思われる。あるいはもっと単純に、据え膳食わぬは男の恥、と言い換えられるようにも思われる。
生活実感なのでここで家人に登場してもらうと、家人がもし「妻でも母でもなく女でありたい」と僕に宣言したらそれはどういう意味を持つか。僕がそう言うのとまるで同じように夫や家族を顧みずに女としての自分に正直でありたい、あるいはそういう場面があってもいいという風にひとまず取ってみる。すると「夫でも父でもなく」では無意識に前提されていたものが目の前に出て来て、妻であること、母であることとは何かがまず問題になってしまう。
もしもそれを不問に付すと、家人は僕にあなたには愛想が尽きたと言ったことになるのではないかと思われる。なぜなら僕は僕なりに生活の中で、家人の妻である部分や母である部分、あるいは女である部分を自分なりに想定しながらそれらを満足させる努力をしているからだ(その場合、家人の妻である部分と女である部分はかなりな程度一致してしまうように思われるがこれも余談かも知れない。)。問題は単純で僕の努力が家人の妻の部分、母の部分を満たすに足りていたかいなかったかだけの話になる。
でも妻であること、母であることはそれぞれ何かという問題を見過ごさないなら事情は少し変わってくる。この場合、僕がどれだけ努力をして端からは幸せな夫婦と見なされていても、それをすり抜けて家人が女としての自分に飛びつくことはあり得る、それほどに妻や母は(あくまで僕の視点から、ということだけど。)不可解な存在であり心性であり得るという含みが残されることになるからだ。家人は妻として母として満たされている、でもそれとは矛盾することなく女としての自分を選ぶことができる、そういう一種の能力が家人に備わっているとしたら、それは僕にとって不可解を通り越し恐怖に似た事態だ。
僕は生活者としてはおそらく妻とは何か母とは何かという問題を不問に付したままにしておきたい。お互いの努力の程度に応じて家庭生活は安定する、そういう世界に住んでいたい。それが僕のこの問題への理解の至らなさの原因のひとつのように思われる。そしてそれは自分のためよりも少しだけ余分に家族のために生きている自分の位置を守ろうとするなら、決して解くことのできない問題として残り続ける気がする。