木曜日の朝起きたら微熱が出ていてそのせいか目の奥と腰がものすごく痛く、もしもインフルエンザだったら会社の人にも迷惑がかかると考え会社を休んだ。のどの痛みや咳は無かった。食欲が無いので朝食はとらずに家人に頼んで腰をマッサージしてもらった。するとだいぶ良くなったので午前中はベッドでうつらうつらしながらたくさんの夢を見た。昼になるとおなかが空いたので食事をした後、市販の風邪薬を飲んでからまたベッドに戻り、本を読もうと思ったけど目が痛くて無理そうだった。腰もまた痛み始めたので家人にマッサージを頼み仕上げにかかとで一番痛むところを入念に踏みつけてもらった(いや、ピンヒールとかではありません、裸足でです。)。その後またうつらうつらしながらたくさんの夢を見ていた。薬が効いたのか四時に目が覚めたときには目の奥の痛みがだいぶ引いていた。熱も下がった。それで「めくらやなぎと眠る女」の続きを読み、夕食を挟んで読み続け「品川猿」一遍を残したところで眠った。
金曜日の朝には熱はすっかり引いていたが、発熱後独特の頭のぼんやりした感じがあった。会社に電話するととにかく休んでいろということだったので繁忙期は重々承知の上でお言葉に甘えさせてもらった。前日に比べると随分元気だったので午前中に「品川猿」を読み上げ、昼食を挟んでその感想、と言うかなんと言うかを書いてブログにアップした。夕方から舞城さんの「ビッチマグネット」を読み始め昨日の午後になって読み終えた。
大した量ではないけど僕が今読んでいる限りの文体の中で舞城さんのものが一番今の若い人たちの言葉に近いことは確かだ。特に今回の作品は西暁町が舞台ではないので方言が入らず一層その印象が強かった。深く考えた訳じゃないので間違っているかも知れないけど、自分にとって今の若い人の言葉は「は?」とか「はあ?」とかいう、相手に対する問い返しのニュアンスに象徴的な気がする。たとえば僕がその問い返しを使うのは相手の言ったことが本当にわからない場合に限られる。でも今の若い人たちは一応相手の言ったことを理解した上で、それでも「は?」とか「はあ?」とか問い返す使い方をしている。これは相手の言ったことと自分の見解とがかけ離れているときに、お前の言ってることは自分にとっては話にならないので全否定したい、というニュアンスが込められているように聞こえる。コミュニケーション能力の低下とか自己中心的とか陰険な、とかいった言葉が思い浮かぶが、それは自分が古いからそう思うのであって好むと好まざるとに関わらず今の言葉はそうなっちゃっていることを認めろと思ったりもする。どちらにしてもこういう言葉の傾向はおそらく行くところまで行くしかない。
そう思うと自分の持っている倫理や価値観が洗い流され薄められて行く世界の中に生きているような気がして来る。後に残るものの中に価値あるものなんてほとんど無いんじゃないかとさえ思える。洗い流されないものが何かあるか。「物語」だ、と主人公は言う。それは数日前に引用した村上春樹さんの言葉とも響き合う。「物語」に自分をつなぎとめろ、と唐突に子供の姿を思い浮かべながら思う。