指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

超然としている、ということ。

妻の超然
絲山秋子さんの日記を普段から拝読しているので、「妻の超然」、「下戸の超然」、「作家の超然」の三作のできあがって行く過程を、割にリアルタイムで知ることができていたような気がする。それで三作とももっとずっと長い話なのかと思っていた。それぞれが一冊の単行本になるくらいの。それはこの作品を読む上でまるで意味の無い印象にしか過ぎないんだけど、どうしてそんな錯覚が生まれたかと考えると、「超然」という言葉がすごく印象的な上、随分前から日記にその言葉が見られたような憶えがあり、その時間の長さが作品をもっと長いものと思わせていたように思われる。だからいつも言ってるじゃねえか、と自分に突っ込みを入れたくなるけど、絲山さんの日記を読むのは好きなのでやめない。
三作でいちばん共感したのは「下戸の超然」だ。デタッチメントの頃の村上春樹さんの作品と似た倫理が展開されていると思う。善意は地獄への道だぜ、という吉本さんの声も聞こえて来る。こういう考え方はあり得るし、それを傲慢とか上から目線とか取られることもありがちだ。どんなに超然としていてもそういうことがあると少し傷つく。
「妻の超然」では、初めはこういう状況で妻が超然としている理由がよくわからない。何もかも放り出してしまえばいいのに、という気がするからだ。でもおそらく妻にはひとつの確信があってそれが彼女をそこに踏みとどまらせている。その確信の根拠がじわじわと伝わって来るように話が展開して行く。彼女の最後のひと言は超然からの転身を結果的に易々と自分に許す、自分自身に向けられたもののように思われた。
「作家の超然」は前の二作と比べて文体が硬質になっている気がした。これも絲山さんの日記から、最近の腫瘍の手術のことを予め知っているので、それがきっかけになって書かれたものだということは容易に想像がつく。だからつい私小説みたいに読みそうになってしまうのを、何度も何度もフィクションの方へ引き寄せながら読む必要があった。それでもこれが絲山さんのなまの声であるという印象を完全に拭うことはできなかった。この作品での超然も、「下戸の超然」に似たものである気がした。
超然としている、ということ、それは超然としているように見えて内心少しも超然としていないことのように思われる。