指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

書き直し。

楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)

楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)

思想の理念と芸術の理念にそれぞれ取り憑かれたふたりの話だ。それぞれの理念を突き詰めたところにそれぞれの理想の楽園が仮定されている。これは遠くから眺めれば思想家でも芸術家でもない僕でも同じことだ。何らかの理想を胸に秘めてその実現に向かう生き方は、人間のほとんど普遍的と言っていい姿のように思われる。でも近くに寄って見てみるとその理想が個人的なものであるか、共同性を含むかという点で僕と彼らとは異なっている。たとえば僕が僕の個人的な理想を実現したとしても、その状態を楽園とは呼ばない。思想によって社会を変革したり新しい芸術のかたちを社会に行き渡らせたりしたいという主人公たちの理想が実現すれば、それは楽園と呼ばれうるだろう。他者を含み込んだ社会性にまで辿り着かなければ、楽園という言葉の持つ広がりや立体感にはふさわしくないからだ。でもそうした楽園は先験的に不可能なのではないかと思われる。他者を変革することはとても難しい上現在僕が手にしている倫理観では倫理的に妥当であるかどうかもかなり怪しい。それに時間の問題もある。楽園に辿り着く前に死の方が主人公たちに追いついてしまうだろう。
思想に取り憑かれたのは女性で芸術に取り憑かれたのは男性だ。このふたりはかなり異なっている。前者は近代の産み落とした弊害に対して近代的な合理性で対抗しようとする。後者は近代がやせ細らせた芸術に対し近代以前の生命力を吹き込もうとしている。前者は同性愛の経験もあるが基本的には性に不寛容であり後者は性を芸術に不可欠な力と見なし未開の男-女(男なのに女として扱われたりその逆だったりする境界的な性)とも交感する。前者はストイックで後者は享楽的だ。個人的に女性の姿にこれまでの自分を男性の姿に今の自分を見ているような気がした。それはもしかすると本当に個人的な感想に過ぎないかも知れないが、書き留めておく。
問題は楽園に辿り着く前に死んでしまったらそれは悲劇なのかということだ。そうだとしたら楽園を胸に抱くこと自体がすでに悲劇の始まりということになってしまう。楽園は先験的にあり得ないからだ。死ぬこと自体は悲劇でも何でもない。楽園という言葉が悲劇的なのだ。