指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

野球がしたい。

 言うまでもなく運動神経が鈍い訳だ。これは子供の頃からなのでほとんど先天的と言っていいと思う。でも小学生のとき一時期クラスの野球チームに入れてもらってたことがある。ひとクラスに男の子が二十人ちょっといる中からキャッチャーを除いた八人でチームを組む。なぜキャッチャーが除かれてたのかはよくわからない。単にキャッチャーミットというものが手に入りづらかったからかも知れない。キャッチャーというものの役割をみんなあまりよく知らなかったからかも知れない。とにかくキャッチャーというのはなぜか相手チームの子がやることになってた。ということはキャッチャーフライをわざと落としたりとかしてもいいことになってたんだろうか。盗塁とかはどうしてたんだろう。もう覚えてないけど。そのチームでピッチャーを任されてたのは別に球が速いからという訳ではなく単に守備が下手だからという不名誉な理由による。ピッチャーの守備の機会って他のポジションと比べてもいちばん少ないから。以来ブロック塀を相手にひとりで随分投球練習をした覚えがある。ストライクゾーンはこのブロックと自分で決めてしかるべき距離からボールを投げる。ブロック塀を越えてしまう暴投もたまにはありながらだんだんとストライクゾーンに行く球の数は増える。野球は観るのもするのも大好きだったからこの投球練習には没頭した。と書いてきて思い当たるのはもしかして野球のルールにとても詳しかったからクラスで八人しかいないチームに加えてもらってたのかも知れないということだ。もっともインフィールドフライなんて高度なルールを知ってたってそれを宣言する審判もいないような試合だった訳だけど。相手のチームが見つかると放課後粗末なバックネットのある公園に集まっていっちょ前に九回までの試合をした。子供心にこれがとても楽しかった。投げるのも打つのもいちいちわくわくした。でもそれ以来野球の試合をやって楽しかったという思い出はたぶんない。中学校の授業中ソフトボールの試合をやったような気もするけど大きなボールと下手投げのピッチングというのが感興を削いだんじゃないかと思う。大学に入ってから理由はよく覚えてないけど学外の草野球チームに入れてもらったことがある。でもこれは人間関係について行けなくてすぐに辞めてしまった。集団に対する苦手意識が自分の中にはっきり形成されてくる時期でもあった。今でも既成の集団に入って行くことはそれほど得意じゃない。でも最近水泳を始めたせいかさにあらずかもう少し体を動かしてみてもいいかなと思うようになった。となるとまずは大好きな野球に白羽の矢が立つ。塾で暇な時間にスイングの真似をしてみる。すると我ながらなかなか堂に入ったフォームのように感じられる。最後に行ったバッティングセンターでは百キロのストレートも打ちあぐねてた記憶があるのになんか当たれば一直線に球が飛んで行くようなイメージが湧く。すると無性に野球がやりたくなる。時間の捻出とか怪我の可能性とかいろいろ考えると現状では敷居が高すぎるのは重々承知なんだけどもう一度野球ができたらいいなと思う。野球が本当に好きだと思う。BGMはユーミンの「まぶしい草野球」しかない。
 今日のスイムは23分37秒で千とほんのわずか記録更新。タイムの縮まり幅は明らかに頭打ちになって来ている。しかも泳ぐのがつらい。今日は意図的にペースを落とすことはしないで済んだ。でもその分きつい。三百とか四百とかでもう着いて行けないと思う。自分のペースに自分で着いて行けないというのも変だけどある意味での極限状態に達するとすでに自己は分裂してるので実感としては全然変じゃない。体はいい気になって自分のリズムを刻む。こちらはそれに黙って従う。この二項対立はおそらくこれからもずっとついて回ると思われる。体というのは「自然」の一部であり、そうであるからには「世界」と「自分」という腑分けでいえば「世界」に属している。たとえば体調を崩したとき体は「自分」にとって敵とまでは言わないけどコントロールできない「他者」と感じられることがあると思う。その意味でも体は「自分」じゃなく「自然」に、もっと言えば「世界」の側に立つ存在と見なすことができる。ということは自分の体が自分にとっての最初の「他者」であり「自然」であり「世界」ということになる。と思う。だから僕はフランツ・カフカのものとされる次の言葉がとても好きだ。曰く、「君と世界の戦いでは世界に支援せよ。」。