指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

軽めに読む「死霊」。

死霊(3) (講談社文芸文庫)

死霊(3) (講談社文芸文庫)

また膝を痛めた。以前医者にもらった薬と湿布が残っていたのでそれらで処置して一日中家にいるしかなかった。それで午前中に「死霊3」を読み終えた。
精読という言葉があるし一見「死霊」は精読にのみ値する作品の態をなしているが、個人的には多少わからないところがあっても強引に前へ前へと進んでしまった方がいいように思われた。これは今回初めて気がついたことだった。たとえばすらすら読んでいて、あ、今読んだところ、ちょっとよくわからなかったなという気がして、もう一度戻って読み直すということは読書ではままあると思うんだけど(誰かに確かめたことが無いので僕だけかも知れないけど)、そうやって戻って読み直してもこの作品の場合ほとんど得るものが無い。それよりは多少わからない気がしてもある長さに渡って一気に読み進めてしまい、その全体からさてどれだけのものが受け取れたか、ということの方を優先した方がいい気がする。自序で「反復の濫用」と自ら指摘されている通り、たとえば7章「《最後の審判》」では数ページにわたってほとんど同じことが繰り返される箇所がおそらく複数あり、それは微妙なニュアンスの違いを含んだ言い方を重ねることによって作者の思い通りのリアリティーに読者を誘う方法と見えなくもないが、失礼ながら作者はちょっと呆けているのではないかという印象も正直禁じ得なかった。
ところで「死霊」に関しては以前属していたMLに書いたことがあって、それを僭越ながら引かせていただく。

 埴谷さんというのは、社会主義運動に挫折された経験をお持ちのようですが、そこから力を一点に集中させるようにして、革命の理論を独自に掘り下げて行かれた方だと思います。それで、社会を革命するより、存在を革命することの方がより本質的だと思われたのではないでしょうか。(この着想の元は、ドストエフスキーの「悪霊」の登場人物が語るてんかんに関するくだりにあるかも知れません。)
 存在の革命というのの具体像は僕にはつかみ切れていないのですが、今ある存在とはまるで違った存在のあり方を目指した革命だと、おぼろげに言えそうな気がします。それで、今ある存在のあり方を実体とし、存在の革命後に手に入る存在のあり方を虚体と、たとえば主人公三輪与志は位置づけているように思われます。
 じゃあその虚体って何なんだよ、と自問すると具体的にはわからないんですけど、自同律の不快というのは「AはAである」という存在のあり方に対する不快の表明なわけですから、「Aは非Aである」か、それに近いような存在のあり方がもし実現できれば、それは三輪与志にとって(そしてかなりの確率で作者自身にとっても)、不快でない存在のあり方、イコール虚体ということになるような気がします。
 死霊の自序に、物を食べることは愚か、呼吸すら許されない架空の教団のイメージが語られていた記憶があります。その教団の聖地には屍が累々と積み重ねられていたけれども、その中心でひとり教祖だけが生き延びていた、それが大雄である、そしてこの話は作品の終末近くで語られる、とあります。
 たぶんその大雄が、作者が辿りつきたかった虚体の、最も理想的に実現された姿になる予定だったのではないでしょうか。キリストも釈迦も食物連鎖からは逃れられず、つまりは何らかの形で殺生に荷担していますが、呼吸すらしない大雄は一切の殺生から自由です。そんなことも、虚体という言葉の発するイメージに、大変近い気がします。

自画自賛もみっともないけど、大枠で言うとそれほど間違っていない気がする。今回ここからどこまで踏み出せたかと思うと甚だ心許ないけど、随分長くなったので続きはまたいつか。最後まで読んで下さった方、本当にどうもありがとうございました。