指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

三日目。

今年は元日実家にいたのでいつも初詣をする近くのお寺には今日出かけた。去年とまったく同じように古い破魔矢とお守りを納め、お参りをしてから新しい破魔矢とお守りをいただいておみくじを引いた。家人と子供は大吉で僕は吉だった。イカ焼きとかじゃがバターとかおいしそうな出店が出ていたけどなぜか食指が動かなかったのは、元日の昼間に飲み過ぎて胃を壊しそれはもうほとんどいいんだけどなんとなく昼間から飲む気になれなかったからだ。子供には綿菓子を買った。住所を間違えたために返送されて来たりして三枚ほど年賀はがきが必要だったけどコンビニを三軒回ってもサラの年賀はがきは売り切れで、仕方なくディズニーのキャラクターが印刷されたものを買った。それから駅前のマックでお昼を買って帰って来た。思ったほどには寒くなかった。ただまだ駅前は閑散としている。
なぜ毎年きちんと初詣に出かけるか考えた。ひとつには子供のためということがある。破魔矢やお守りを納めて新しいのをいただく、という習慣があるということを特に意識しなくてもわかっていて欲しいということと、大きくなってひとりで生きて行くときに、そう言えばという感じで両親がそういうことをしていたなというのをできれば懐かしく思い出してくれたらうれしいということだ。自分の経験では子供の頃のそういう小さな習慣を思い出して懐かしむことは、ひとりで生きて行くことを選んだ後とても心を温めてくれるように思われる。そういう形で親は長い間子供の心を温めることができるんじゃないかと、いささかの願いのような気持ちを込めて思っている。
吉本隆明さんは初詣みたいなものもやはり信仰に含まれるんじゃないかとどこかでおっしゃってた記憶がある。超越的なものと共同性があれば信仰は成り立つと思うのでそういう言い方もありだと思う。ただ自分の初詣に対してそれを信仰だと言われるとちょっと違和感がある。何か自分の力の及ばないものに対してたとえば「破魔矢をいただく」という言葉に表れているように謙虚になること。それから誰もが行くから行くということ。ただそれだけのことと言いたいけど前者は超越性だし後者は共同性だ。とするとこれはやはり信仰なんだろうか。信仰と言うともっと温度の高いものを思い浮かべてしまうんだけど。