指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

エンカウンター率が上がる。

 今日もうとっぷり日の暮れた時刻に授業の空き時間があったので駅前の銀行まで家賃を振り込みに行った。途中バイト先の前を通り過ぎたところで不意にお疲れ様ですと声をかけられた。振り向くと髪の長い若い女の子で暗くて誰だかわからなかったけどこちらを見てほほ笑んでるように思えた。それでああお疲れ様ですといかにも誰だか気づいたかのように会釈してそのまま行き過ぎた。お疲れ様ですと言われたということはたぶんお客さんではなくてバイト先のスタッフのうちのひとりだったんだろう。でも誰だかわからない。ただ僕のことを知っていて声をかけてくれたという親しみの感じがちょっと温かく胸に残った。そんなエンカウンターが最近増えてきてる気がする。昨日はちょっと離れた駅前の書店から外に出たところで前に触れた「本は読むなあ」のおじさん夫婦に出くわした。先方が家内ですと言うので僕も一緒にいた家人を紹介した。同じ日に近所のスーパーで女性のお客さんに挨拶された。この人は先週もかなり離れた別のスーパーで買い物してるときに見かけて挨拶したばかりだ。今日バイト先にお客さんとして姿を見せたのであちこちでお目にかかりますねと言うとあんな偶然あるんですねと笑って返してくれた。ジョギング中の別のお客さんから出勤の途中に声をかけられたこともある。横断歩道を渡ってたら反対側からお客さんのひとりが渡ってきたので挨拶したこともある。お店で食事してたら隣の席に座ってたのがお客さんだったということも二度ある。前にも書いた通りとても人付き合いが苦手なのでこれだけ多くの知り合いが一度にできるという体験に戸惑っているのかも知れない。でもそれは人付き合いがひどく苦手な身にとってさえそう悪くはない。もちろん食事に誘われるとか飲みに誘われるとかそういうことがあれば話は違ってくると思う。でもただの顔見知りでどこかで会えば挨拶するだけの関係というのはなんのストレスもなしにただただ少しだけ心を温めてくれる。そういうのがそれほど悪くないということをこの歳になって初めて知ったような気がする。ラスコーリニコフがソーニャの力を借りて大地に受け容れられるように―と言うほど大げさじゃないにせよ―僕もこの界隈の地縁みたいなものに初めて受け容れられつつあるのかも知れない。