指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

泳ぐ、泳ぐ。話す、話す。

 昨日のスイムは結局塾が終わった後に泳ぎに行って25分36秒で千メートル。他にお客さんもいるコースで何度か順番待ちみたいなことを余儀なくされた割にはやや遅めながらいつものペースに収まったのでそれほど悪くない気がする。他にスイマーがいる環境だとプール内の波も高くなるし対向するスイマーにもぶつからないように気をつけなくてはならないしそれなりに気を遣う。プール一面を独り占めして好きなように泳げる朝イチは監視員だけに許された至福のときなのかも知れないと改めて痛感する。いちばんハードなスイマーが泳ぐコースで泳いでいると同じコースにいるひとりのスイマーがどうやら僕について来ようとし始めたようだった。往復五十メートル泳いで肩で息して休んでるようなどう見ても短距離型のスイマーが僕に気づいてそのペースについて来ようとする。こちらは誰もいなければノンストップで千メートル行けるので休憩なんていらない。もしも二十五メートルとか五十メートルとかの短い距離で競ったらそのスイマーの方が速いかも知れない。でも千メートルという長丁場を泳がせたら休憩を取らない分僕の方が速いということはあり得る。スポーツというのはなんでもそうなんじゃないかと思うけど他人と競う場面と自分と戦う場面との二つを持っている。僕にとって水泳とは常に自分との戦いでありどこまでも孤独な作業なのでそもそも他人と競おうという発想自体がない。だからどうもこの人は自分について来ようとしてるみたいだと気づいてもそういうのって無意味だから止めた方がいいのにくらいにしか思わない。あとお互い相手の邪魔をしないように気をつけて気持ちよく泳ごうじゃないですかなんてことは思ったりする。でもその程度がせいぜいだ。この話をもう少し押し進めてみるとこと水泳に限らず何につけても人と比べようという思いが今の僕には極度に希薄かもしかしたら皆無のように思われる。用心深く今の僕と書いたのはかつての僕にはそういう発想があったかも知れないからだ。でも今はあまりない。もしくはまったくない。これは悪く言えば経年劣化のせいでそういう自意識を抱えるのに疲れ果ててしまったからだと思われる。あるいはその意味のなさに耐えられなくなってしまったとでも言うか。よく言えばこの年になってようやく辿り着いた境地みたいなものかも知れない。だから世に言う「マウントをとる」ということの意味が僕にはよくわからない。言葉の意味はわかる。でもそんな行為にどんな意味があるのか皆目見当がつかない。だからそんなことしたって最低に虚しいだけなんじゃないかという気がするばかりだ。あと頭悪いんじゃねーのとは若干思う。仲よくやりましょうや。あなたが他の誰かより多少優れてたとしたって世の中にはあなたより優れた人が必ずいるもんなんだよ。
 一夜明けると風邪の症状はまだ残っていてのどがいがらっぽい他咳も少し出る。でもせっかく昨日多少無理して夜の時間に泳ぎに行ったので今日も泳いでおきたい。ちなみにアップルウォッチのスタンドは昨日予想通りコンプリートできなかった。まあでもそれは別に構わない。という訳で今日のスイムは若干力を抜き気味にして25分06秒で千メートル。25分台で泳ぐとそれほどつらくない。それからバイト。
 今日のバイトの話その1。
 サコちゃんが最近よくシフトに入るようになって今日も彼女と一緒だった。個人主義で群れるのを嫌う彼女とは前にも書いたようにとても気が合う。朝の作業が終わってからお客さんが入って来るまでの束の間話をしてるとプール監視員の学生バイト十数人で飲み会があったようだと言う。彼女とふたりで胡散臭いよねと普段から話してる自称オックスフォード大出身のオックスもその席にいたんだそうだ。つまり学生ばかりの飲み会にひとり五十がらみのおじさんが参加してたということになる。もっともサコちゃん自身は参加しなかったと言う。仲のよい女の子のバイトから誘われたので結構悩んだんだけど結局行かなくてよかった気持ち悪いからということだった。その気持ち悪い感じは僕にもとてもよくわかる。差し詰めオックス派閥の決起集会とでもいったところか。彼が何を企んでるにせよそれはどこまで行っても僕とは関わりがないし僕が彼に望むのはできるだけ早く僕の人生から出てってくれということだけだ。あるいは僕が彼の人生から出て行くことになるのかも知れないが。
 今日のバイトの話その2。
 こちらもなぜかとても気の合う院生のヤカさんが本当に久しぶりにプールの受付に入っていた。最近よくお目にかかりますねと声をかけるとまあめぐり合わせみたいなものですねと返してくれる。帰りしなにもまだ彼女が受付にいたのでちょうどいいかもと思って僕の方には時間があまりなかったので実はうちの子供が院に行きたいと言ってるんですけど今日は時間がないので次回お目にかかったときにでもご意見を伺わせていただけますかと尋ねると時間がないのくだりはすっ飛ばされたみたいでいきなり文系ですか理系ですかと話が始まる。それでまたいろいろ聞くことができた。彼女自身は一橋大学の院に籍を置いてると言う。すっげえ優秀じゃないですか。高校のときの友だちがひとりだけ一橋大に行ったけど予備校とか塾とかまったく通わず現役で受かった。彼もすごく頭がよかった。その他今日彼女についてわかったことはもう長いこと彼氏がいなくて願望もないのでおそらく結婚しないだろうということ。来年からなんとか(よく聞こえなかった)フェローになり大学で週にいくつか授業を受け持つこと。競馬と犬が好きなこと。などなど。彼氏さんとかいないんですかとかすでにセクハラに踏み込んでるような質問にも彼女は率直に答えてくれる。僕はそれを彼女との間にそれだけの信頼関係があるからだと見なしている。天から降ってきたような不思議な信頼関係だ。でもその強固さを意識するとき僕はなんとも言えず温かい気持ちになれる。そしてその行き場のなさにちょっとだけ切なくなる。いつか彼女と会えなくなる日が来るかも知れない。まあ今だってそうしょっちゅう顔を合わせてる訳じゃないけどまったく会えなくなる日が。そしたら僕は結構ショックを受けるような気がする。だからその日が今よりも先できるだけ遠くにあることを祈っている。