指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

強行軍その二。

 出かける仕度を始めると家人が自分も行くと言う。いろいろ人手があった方が都合がいいかも知れないからと。子供ももう成人してるしひと晩くらい自分でなんとでもできるだろう。ちょっと迷ったけどその方が助かるような気がして一緒に行ってもらうことにした。手続きということで念のため印鑑と泊まりになるときのことを考えてノートパソコンと持病の薬をバックパックに放り込む。着替えなんかは必要になったら向こうで買えばいい。それからありったけの現金を財布に詰める。外に出てから駅を目指して歩き出すと家人がタクシーの方がよくないかと言うのでそうする。タクシーを使うなんて子供が小さい頃夜中にぜんそくの発作を起こして病院へ向かうとき以来のような気がする。東武浅草駅には思ったより早く着き三十分後に出るりょうもう号のチケットを買った後近くのセブンイレブンで食べ物と飲み物を調達。僕はなんだかすごくおなかが空いてなんとか豚まんというのを追加で買って駅に戻る道すがら食べる。食べながら今の自分は明らかにいつもの自分と違うと実感する。どんなにおなかが空いてても歩きながらものを食べるということは普段しない。時間に追われる緊急時に歩きながら栄養補給をする感覚に近いかも知れない。その後一見落ち着いているようでいて実は心の底で割にうろたえてる自分を何度か意識する。電車に乗って家人とふたりペットボトルのほうじ茶でときどきのどをしめらせながら窓外の暮れて行く景色を眺める。何十回と目にした景色なのに不思議と見覚えがない。父親の認知症が進行してからは来てもらってももてなしができないという理由で実家には帰らなくなった。衰え果てた父親の姿を見せたくないという気持ちも母親にはあったと思う。父親が亡くなってからも新型コロナのせいで帰ることはなかった。なんのかんので十年くらい経ってしまった。一度父親が上京したときにアテンドしたことがありそれについてはこのブログのどこかに書いてあると思う。子供がまだ中学生だったのでそれから数えても七、八年は経ってる。それが急に帰ることになった。帰ると言ってもコロナにかかった弟のいる実家には立ち寄らない。母親ともおそらく面会できない。ただ母親の入院の手続きをするためだけに帰る。母親の生まれ育った土地である足利に僕が住んでいたのは生まれてから二歳までの二年あまりに過ぎない。その頃の記憶はまったくない。父親が地方銀行の行員だったので数年ごとに関東内をあちこち転勤した。その間母親の実家があったので折に触れて訪れる場所ではあった。定年後父親は年老いた祖母(祖父はすでに他界していた。)のケアと何よりこの地が気に入っていたという理由で家を建てた。東の小京都と父親は誇らしげに呼んでいた。でも僕にとってその地が故郷であるという意識は希薄だ。そういう風に考えると僕には故郷らしい故郷というのはないのかも知れない。強いて言えば結婚して家人と暮らし始めた今の住処が僕にとっていちばんなじみのある懐かしい場所ということになる。でも考えてみれば故郷というのは普通自分で選べるものではないので自分で選んだ場所をいちばん懐かしいと思ってる僕はその意味でも故郷を持たないと言っていい。ぼんやり物思いにふけりながら車窓を眺めていると家人が気遣わしげにこちらを見てるのがわかる。大丈夫。と声に出して言う。医者の話を聞くまでは心配してもしょうがない。と。午後六時過ぎに東武足利市駅のホームに下りるとそこは以前と何も変わってないように見える。階段も待合室もお手洗いも改札も改札の向こうに見えるデイリーヤマザキも。覚悟を決めてホテルを予約してしまった方がいい気もしたけど家人がとりあえず病院に向かおうと言うのでそうすることにした。ところが駅前のロータリーにタクシーが見当たらない。駅に着いたら電話するように弟からショートメールが入ってたので電話する。そこで入院に必要なものを買い揃えて欲しいこと病院内に二十四時間営業のコンビニがあるのでそこが利用できることただしパジャマがないのでそれは病院の近くにある衣料品店で買って欲しいことなどを知らされる。すべて了解してタクシーがいないことを伝えるとそこは市役所の職員すぐに手配するからちょっと待っててと言って電話を切る。すぐに折り返し電話が鳴り五分くらいで配車されると思うので来たら名前を言ってと言う。ものの数分でタクシーがやって来て乗り込むと日赤までと伝えた後割に気さくな運転手さんと足利の花火大会や渡良瀬川にかかる橋がかけ替えられることなどについて話をする。川沿いの暗闇の中に巨大なクレーンが三台斜めに伸びているのが見える。十分もしないうちに病院に着き家人はパジャマを買いに近くの衣料品店に向かい僕は手続きをして病院内に入る。母親のいる病棟の母親のいる階でエレベーターを下りるとナースステーションで名前と用件を伝える。イスとテーブルのあるスペースに案内されこれに書き込んで欲しいと言われた用紙に母親の名前や住所生年月日などを書き込む。印鑑を用意して行ったのは正解だった。弟や僕の家やケータイの電話番号を書く欄が六か所あってそのうち四か所に間違った番号を書き込んでたことに気づいたときこりゃ自分で考えてるよりよほど動揺してるなと気づく。それから母親の現在の生活習慣に関する細かい質問に対する答えを書き込む。もちろん同居してないのでわからないこともたくさんあるけどわかるだけでいいということだった。しばらくして帰って来た家人は今度は入院に必要なものが事細かに書かれた用紙を持って一階のコンビニまで下りて行く。その間に看護師さんから現状の説明を受ける。肺炎で息が苦しいので酸素吸入をしているが意識はしっかりしていてお手洗いにも自分で行ける。症状が治まっても筋力の衰えのためにリハビリなどが必要になる場合がある。それには料金が発生するが構わないかということなので構わないと答える。先生のお話が伺えるのですかと尋ねると医師はもう帰宅したということだった。仕方ない。もう午後七時を回っている。家人が帰ってくると買ってきたものを看護師が預かってくれてそれでおしまいだった。ナースステーションでよろしくお願い申し上げますと家人とふたり頭を下げてエレベーターに向かおうとすると看護師があ、先生と小さく叫ぶ。そこにいた白衣の若い男性が母親を担当する医師だった。そしてとてもラッキーなことに話を聞くことができた。覚えてることを書くと母親は重症中等症1中等症2軽症の四段階のうち重い方から二番目の中等症1に分類される。高齢であり持病で服薬もしてることから免疫力が下がっている。肺炎も新型コロナから肺炎になったと言うより新型コロナで免疫力が下がったところへ別の病原体にかかった可能性が高い。これからもそうしたリスクがあるので容態が急変することが考えられる。免疫力を回復する薬も飲み始めているが薬というのは効くまでにタイムラグがあるので間に合うかどうかわからない。ということで看護師よりもシビアな見方なことがわかった。それから延命治療について訊かれたのであまり賛成ではないのでしないで欲しいと伝える。これは弟も家人も僕も同じ意見だった。ここでもきちんと頭を下げて医師と別れる。弟に電話して病状を伝えまたタクシーを回してもらい駅に着くと午後八時四分発のりょうもう号浅草行きに間に合った。たった一時間五十八分の滞在。目と鼻の先にいる母親には会うことができなかった。でもそれもまた仕方のないことだった。(この項続く。)