アニメのテレビシリーズを再編集して劇場用の映画にする最も古いケースは個人的に知る限りでは「宇宙戦艦ヤマト」だ。観たことないので詳しく知らないけどおそらくテレビシリーズが二時間くらいに凝縮されてるんじゃないかと思う。続編の「さらば宇宙戦艦ヤマト」やその翌年の「銀河鉄道999」などは劇場版オリジナルだ。特に999の方は原作やテレビシリーズの主人公「星野鉄郎」が十歳くらいの男の子に設定されてるのに対し劇場版では十五歳ほどになっていて見かけもそれなりに変わってる。これはメーテルとの恋愛劇を可能にするための設定変更と言われている。話を元に戻すとテレビシリーズを編集し直して劇場版にしたアニメとしては他に「機動戦士ガンダム」がある。いわゆるファーストガンダムで三部作の劇場版になった。三作目は劇場版オリジナル画像も含まれてたような記憶があるけど記憶違いかも知れない。ヤマトにせよガンダムにせよその劇場版をつくるのに多少の換骨奪胎はあるにせよ物語を冒頭からおしまいまで網羅してる点で共通してる。だから今これらの作品を観たとしたらやはりそれなりの駆け足感は否めないかも知れない。「赤毛のアン~グリーンゲーブルズへの道~」でとられた高畑勲監督の方法が既存のテレビシリーズ再編集と大きく異なっているのは全編を網羅することが最初から断念されている点だ。オープニングとエンディングを除いても正味二十分は下らないテレビシリーズ五十話を一時間半や二時間に収めること自体が土台無理な話だ。だとすればどこを取り出せば説得力のある劇場版になるか。高畑監督が選んだのは第一話目から第五話目つまり孤児院から働き手になる男の子を引き取るつもりだったカスバート家のマシューとマリラの老兄妹のもとへ手違いで女の子がやって来る冒頭からその女の子をどうするか孤児院へ送り返すのかそれとも引き取るのかというふたりの葛藤を通してついに引き取ることが決まりそれを女の子に伝えるまでが描かれている。「赤毛のアン」の白眉とも言えるいくつかのおもしろいエピソードは気前よく棄てられその冒頭を映画化することを選んだ。そこに高畑勲という人の構成力の見事さがまずよく表れてる気がする。この映画の存在は知ってたけどほんのさわりの部分だけということで特に観る必要を感じずディスクになってるものも買おうとしなかった。でも実際に観てみると映画化するならこの部分しかないということが深く納得される。そしてこの判断のおかげで高畑監督には急ぐ必要がなかった。美しいプリンス・エドワード島の景色やおよそ笑いとはかけ離れたようなマシューとマリラの意外にユーモラスな姿や原作にはないアニメオリジナルの演出シーンを観客にじっくり味わってもらってよかった。それがこの映画がストーリーテリングとしてなんの破綻もなく成功してる主な要素のように思われる。
この作品でひとつとても好きなシーンがある。アンの魅力に惹かれて引き取ってやりたいと思い始めたマシューとできれば孤児院に返したいマリラ。マシューは夏の間農作業を手伝ってくれる近所の男の子と話をつける。マリラは孤児院からアンを連れてきてくれた人の家にアンを孤児院に返せるか相談しに行こうと馬車にアンを乗せて出かけようとしている。なんならそのままアンを置いてきてしまおうかという勢いだ。マシューはそれを止めて男の子が手伝ってくれることになったとマリラに報告する。つまり働き手がいない問題は当面解決したと暗にほのめかしてる訳だ。これに腹を立てたマリラは馬車を急発進させる。マシューの方を振り向いたアンの視界は木の葉のように揺れる。そこには急発進させたマリラのもしかしたらアンを引き取る方に傾いてるかも知れない自らの思いを断ち切りたい願望が象徴されてる気がする。マシューは馬車の姿が視界から消えてしまうとひとしきり呆然とした後うめき声を発しながらこの期に及んで追いかけでもするかのように何歩か歩んで止まる。そこにはアンが視界から消えたことが本当に取り返しのつかないことだと今になって気づいた無念さがほんとによく表れてる。それはたぶん原作にはないアニメオリジナルの演出だ。マシューとマリラの思いがその行動から手に取るようにわかるシーンで高畑宮崎コンビの演出の見事さに何度観ても胸が熱くなる。それを初めての大画面で目にすることができた昨日は涙を禁じ得なかった。
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