指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

塾のこと。

学生の頃自分の部屋で塾をやっていた。通っていた銭湯のおばさんと親しくなり、成り行きは忘れてしまったが近くの子供たちを紹介してもらって一時は八人ほど教えていた。プロではないので安い料金だったが、それだけ集まるとさすがに結構な実入りになった。そのかわり月曜から金曜の午後六時から十時まではずっと仕事だった。テスト前にはさらに土曜や日曜も教えた。子供はほとんど同い年で一番長い子は小学五年生から中学卒業までうちに来ていた。ちょっと不良がかった子供が学校で問題を起こしたときにその母親からどうしたらいいかと相談を受けたりもした。そんなの教師に聞けよと思ったが思うところは述べた。
成績のいい子は名のある塾へ通うのだろうから、うちはまあ落ち穂拾いみたいなものだった。実際ほとんどの子供の成績はあまりよくなかった。でももちろんやるだけのことはやったし、効果もある程度は出た。少しくらいなら感謝もされていたと思う。それより何より子供たちがなついた。僕は別に子供好きという訳ではないし、子供たちを遊びに連れて行ったりもしない。たまにトランプで遊んだり、カップヌードルやおかしを買っておいてふるまったりするだけだ。はやりの音楽やアイドルに関しては逆に随分教えてもらった。でもなつかれたのはそういうことのためではない気がした。要するに彼らの生活の中にその頃の僕くらいの年の差の人というのがいないせいだと思われた。親や教師よりは若いが兄にしては年齢が行っている。身内ではないがある程度親身になって話を聞いてくれる。分別くさくなく、でもわきまえたところがある。少なくとも自分たちに対して何らかの責任は負ってくれている。そういう位置づけが彼らにとってよかったのだと思う。
今週東京駅の近くでばったりその子供の一人と出会った。まったくの偶然だ。もちろんもう子供ではなく、うちの子と同い年の子供を持つ父親になっていた。先生とは一生のつきあいだと思っていたんです、と彼はうれしそうに言った。家族以外の誰かからそんなに温かい情緒を向けられたことにちょっと胸を突かれた。これを拒絶した漱石の「こころ」の先生の苦悩は、だからちょっとはかり知れないものになる気がした。実感としてそれがわかった。
近く彼とゆっくり酒でも飲もうと思っている。