指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

バベルの図書館とディスコ・ウェンズデイ。

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日」だが、上巻しか読んでないのに感想書くのも異例だ。
高橋源一郎さんが「一生解釈してろ、ばかものめ。」とか、それに近いようなことを書かれていたのは「ゴースト・バスターズ」だったか。その台詞が何度も頭の中で繰り返された。でももっと強く引きずられて行った先にボルヘスの短編「バベルの図書館」があった。もうずいぶん以前に読んだので細かいところは忘れてしまった。でもはっきりと憶えているのはその図書館に収められた本にはこの世のすべての文章が書かれているというところだ。すべて、だ。すでに書かれた文章、これから書かれる文章、これまで書かれたことはなかったし、これからも書かれることのない文章、そのすべてが「バベルの図書館」にはあるのだ。アーネスト・ヘミングウェイの失われたトランクに入っていた原稿と同じ文章だってあるし、「明暗」の続きだってある。アリョーシャがツァーリ暗殺をもくろむという「カラマーゾフの兄弟」の続編だってあるし、そのすべてのあらゆる言語による翻訳だってある。そのしかけ、と言うか、論理的な根拠はここでは措くけど、それが「バベルの図書館」だ。
でも、すべてがあるということは何も無いのと同じだ。確かに「バベルの図書館」のどこかには「明暗」の続きが書かれた一冊がある。でもそれとわずか一字違いの贋作もある。二字違いの贋作もある。それどころか津田が刹那・F・セイエイの替わりにガンダムエクシアに乗って、実は津田の細君だったソーマ・ピーリス少尉と戦う話だってある。「バベルの図書館」という思考実験(これをもっとコンパクトにしたのが村上春樹さんの「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の中で触れられる「百科辞典棒」だ。)では、それらは必ず存在するのだ。
そんな風に無限にありうる贋作の中から本物を見つけるというのはどういうことか。それは自分で書くということとほとんど同じかまるで同じなのではないだろうか。そこでは読む、もしくは読んで判断するということと、書くということとの間に置かれた違いがほとんど無化されてしまう。おそらく百人の研究者に無限の時間を与えて「バベルの図書館」を探らせたら、長い時間の果てにそれぞれがこれが「明暗」の続きだと言って持って来る本はきちんと百冊あるに違いない。それはすでに彼らひとりひとりが「明暗」の続きを書いて持って来たということと同じではないだろうか。
世界を読む、解釈する、文脈をつける、物語化するということにひたすらこだわられている「ディスコ探偵金曜日(上)」も同じ事態になっている気がする。情報が無限で、それらひとつひとつのリアリティーもきちんと切りそろえられている世界の中では、どの文脈が正しくてどれが間違いということは現実的には言うことができない。真相が逃げて行く、と作中の名探偵が言う通り、世界は常に更新され追加されながらある。その世界の感触を味わうだけでもこの本を読む価値は充分にあると個人的には思うけど、その世界に対抗するディスコ・ウェンズデイの武器がもう感動的なまでにかっこいい。それが何かは、もちろんここでは言えない。