指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

極限の世界像。

イキルキス
世界という言葉が使われるとき、その意味は割に曖昧なことが多いように思う。自分自身を振り返ってもそうだし、世の中での使われ方を見てもそんな気がする。余談だけど、僕にはなかなかこの「世界」という言葉を使うことに踏み切れなかった一時期があった。もちろんその概念をつかみ損ねていたせいだが、いつしか自分に「世界」の使用を許すようになっても、使う度に起こる違和感を今でも完全に拭い去ることができない。「世界」とは何か。「世界」の輪郭とはどこにあるのか。
一方で「イキルキス」を読むとそこには極限の世界像が示されている気がする。それは文脈も物語も解釈も言葉も一切受け付けない世界だ。言葉が正しいかどうかわからないけど、そこには極限の他者性が横たわっているように感じられる。そこから見れば本物の他者などまだしも柔らかくあたたかいぬくもりと感じられるほどのひどく荒涼とした風景だ。主体が無ければ客体としての世界も無い。世界は認識し解釈する主体の存在があって初めて世界として存在する。それは確かにそうかも知れない。でもここで想定しているのはどんな主体の存在とも非在ともまったく無関係にただ存在しているだけの世界だ。少なくともそうした世界を想定することは不可能ではない。我々は文脈や物語や解釈や言葉や認識や幻想を仲立ちにしてその世界と折り合いをつけている。でもそれで手に入るのは文脈や物語や解釈や言葉や認識や幻想越しに見た世界像に過ぎない。極限の世界像はそのもう一歩先にいつでも手つかずのままあり、我々の文脈も物語も解釈も言葉も認識も幻想も拒んでいる。「イキルキス」はそういった世界の存在を前提にして書かれている気がする。
その極限の世界像にあっては、どんなことが起ころうとも不思議ではない。不思議、というのはすでに解釈の内に含まれてしまうからだ。事件はどんな根拠付けからも断ち切られ自由に生起することができるし、解釈はいかようにもできるものの元々その解釈は極限の世界像とは無縁のものだからつまりはどんな解釈も無駄だ。(この辺で「ディスコ探偵水曜日」や「獣の樹」への架け橋を見いだすこともできるかも知れない。)だから主人公はしばしば嫌になってしまうし、どうでもよくなってしまう。彼は結局のところ自分が言葉に取り巻かれそこから脱出できないことを知っているからだ。極限の世界像にたどり着く道なんて無い。
でもだからこそ「イキルキス」の幕切れはあれだけ心を揺さぶるものになっていると少なくとも僕にはそう思える。表題作がものすごくよかったので、今回あとの二編については触れない。でももちろんその双方ともとてもおもしろかった。