この「短編小説集」に主人公として現れる男たちは特に女に不自由しているようには見えない。でも彼らは何らかの形で女を誰か他の男と分かち合うことを余儀なくされているか、あるいは自ら望んでそうしている。つまり女たちはひとりの男に独占されてはいなくて、そういう事態を指して「女のいない」という言い方が選ばれているように思われる。男がひとりの女を独占することは正しくないとか、女というものはひとりの男に独占されない本質を持っているとかそういうことではない。女がひとりの男に独占されない場合、男はそれをどのように考え受け容れればいいのかということと、同時にその受け容れたり受け容れられなかったりするプロセスとはどういうものかということに関心が寄せられている。
読みながら、三角関係はたとえば夏目漱石が繰り返し描いた主題であることや、評者によっては村上春樹さんのいくつかの作品を取り上げて男どうしで女を受け渡す物語だと言っていることなどを思い出した。決して目新しい主題ではない。でも、そういう主題を選んで、これだけ新鮮な物語ができていることに驚いた方がいい気がした。同時に六十台も半ばに差しかかった作家の関心がこういうところにあることにも驚かされる。理由はうまく言えないけどこういうことはもっと若い人の関心事ではないかと思うからだ。