指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

浮かないということ。

吉本隆明がぼくたちに遺したもの
うちは新聞が違うので高橋源一郎さんが吉本隆明さんを追悼した「思想の「後ろ姿」」を掲載時に読むことができなかった。今はテキストファイルでパソコンの中に保存されている。確か、高橋さんの奥様がツイッターに上げて下さったものをテキストファイルにしたんだったと思う。それについてはこのブログでも触れた記憶がある。この本に再録されているのを読み返して改めて胸を強く打たれた。その追悼文からそれほど時間が経っていない段階で高橋さんと加藤典洋さんが吉本さんについて行った講演とおふたりの対談が収められている。それぞれがそれぞれの立場から吉本さんに触れているけど高橋さんの方がより個人的なスタンスで、加藤さんの方がより客観的と言うか分析的と言うかそういう方に力点を置いて論を繰り広げているように思われる。個人的に強い関心があったのは吉本さんの「反・反原発」をおふたりがどう位置づけるのかということだった。高橋さんはそれを、言ってみれば詩的な処理の仕方で受け止めているように思われた。「正しさ」に対する浮かない感じ、誰もが正しいと言っていることに対する違和感。吉本さんの示すその構造はとても微妙なので高橋さんも思わず「・・・・・・。」と口ごもられているほどだ。一方加藤さんは吉本さんの誤りをかなり緻密に跡付けながら、でも声高に批判するのではなくこう考えるのが正しいと自分は思っているという控えめな言い方をされてると思う。それはとても説得力があるように思われた。
それともうひとつ言われてみれば確かにそれって引っかかってたと思わされたのが、吉本さんの言う「アフリカ的段階」という概念はまあまあわかるとしてそれと併置して置かれる加藤さん言うところの「先端と始原の二方向性」という概念はいったい何だということだった。吉本さんの晩年の本を読むとしばしばこの言い方が出て来るけど一度としてそのイメージをきちんと把握できたことがなかった。結論から言うと加藤さんのこの概念に対する解説はとてもわかりやすかった。なるほどそういうことだったのかと思った。
話は変わるんだけど高橋さんはこう言っている。

一九六四年以降、『言語にとって美とは何か』が六五年に出てからは、吉本さんのすべての新刊を本屋で初日に買うというスタイルを、九0年代半ばまでは続けていました。

僕にとってそういう著者の一人だった高橋さんの本を、気が付けば三冊も買い逃していた。たぶんすべて僕の離職後に出版された本で読む元気がなかったからだと思われる。図書館で借りてこれで二冊目までフォローしたけどどちらも手許に置いておきたいので買おうかどうしようか迷っている。小説以外の高橋さんの本を読むと、読みたい本が増える。