指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

これまで。

 2005年の七月にブログを始めた。十八年前のことらしい。四十一歳。今年二十二歳になった子供はまだ四歳になってない。その頃わずかなりとも交流のあったブロガーさんの多くはすでにどこかに行ってしまった。今でも交流があるのはお三方くらい?だろうか。個人的には実生活でも非常に人づきあいの悪い方で友だちだって片手の指の数ほどもいない。だからウェブでもそれほど多くの人と親しくなろうはずもないんだけどそれでも当時は結構心温まるやりとりをしていた気がする。仕事の得意先の方なんかもいたし。懐かしいと言えば懐かしいしいい時代だったと言えばそんな気もする。でもまあそういうのは昔の話だからそういう風に思えるだけのことなのかも知れない。その頃はまだSNSなんてなかったので皆さん僕みたいなスタイルでブログを書いていた。という言い方は正確ではなくて皆さんのスタイルを見習って僕もブログを書いていたと言う方が正しい。以来多少の変化はあるかも知れないけど主観的にはずっと同じ「声」で書き続けている。それは本当の僕の声よりも一段階トーンを落とした「声」だ。ブログを書くときにはいつでもその「声」が頭の中に響いている。それを聞き取って下さる方は聞き取って下さってるのか声がいいと言われてすごくうれしかったこともある。極言するとこのブログにあるのはその「声」だけなのかも知れない。不思議なことにその「声」はひとつめのエントリを書いたときにはすでにぴたりと決まっていた。試行錯誤してつくりあげたとか長い旅の末に発見したとかそういうんじゃなく初めからそれはそこにあった。だから僕はその「声」を借りて語ればいいだけだった。借りて?そうとしか言いようがない気がする。少なくともそれは僕の地声ではないから。ブログを書くとき用の特別な「声」だから。そして重要なのはその「声」がなかったら僕は三千ものエントリを書くことができなかったんじゃないかということだ。村上春樹さんが確か文体のことだったと思うけど乗り物(ヴィークル)に喩えられてるのを何度か読んだことがある。それと引き比べるのは誠に誠におこがましいんだけど僕もその「声」という乗り物から駆動力を得ている。その「声」の響きに耳を澄ませていれば僕は前へ進むことができる。うまく書けそうもない複雑なこともその「声」の力を借りればなんとか書き切れそうな気がする。そして実際かなりな程度書き切ることができてる―まあ本人の言うことだからあまり当てにはならないにせよ。という訳でこれまでその「声」を後生大事に抱えて歩いてきた。大好きな小説に登場する父と息子のふたり連れが大切に運んでるあの火と同じように。ちなみに三千達成について家人は絶賛してくれている。でも君の文章はお金になるけど僕のはそうじゃないからなと思う。力なく。