指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

印象だけで書くと。

 テレビのニュースを一本見たときの印象だけで書いてて裏とかとってないので事実誤認があったら申し訳ありません。
 三年ほど前に小学生の女の子が自殺してそれがいじめを苦にしてのことだったらしいので調査委みたいのが立ち上げられた。その調査結果が出ていじめはあったと認めた上ででも自殺の直接の原因は複合的で特定しがたいということだったと今日のニュースでみた。それに対し遺族側がその調査結果に不満を表明し自分たちは実際に何があったのかを知りたいだけだとコメントしていると言う。
 もちろん僕だって自殺を考えたことはある。と言うかシリアスからおふざけまでグラデーションは多々あれどほとんど誰もが一度くらいは自殺することを考えたことがあるんじゃないかという気がする。あなたはどうですか。そして僕の場合そのときいちばんの抑止力になったのは親だった。親が悲しむということだった。そしてその抑止力の卑小さに自分でも相当うんざりした。たとえば―あくまでたとえばだけど「自動律の不快」とかそういう思想的と言うか観念的と言うかそういうもので自殺を考えたとしたら親なんて自殺の抑止力にならないんじゃないかと思ったからだ。親のために思いとどまる自殺なんて凡庸すぎる。でも今考えればそれは僕なりの家族の発見ということだったかも知れない。当時は親元を離れたばかりで親の支配下から逃れてせいせいしたと思う一方で離れてみて初めてわかる親の恩みたいなものもやはり感じない訳には行かなかった。僕の中には親に充分に愛されて育った痕跡があった。それは僕の心を常に温めつらいこと苦しいことに対する耐性を形作ってくれていた。後年になって家族論なんか読むようになると自分の自殺の抑止力が意外に正当な根拠を持つものだったんじゃないかと考えるに至った。それはもはや卑小な抑止力なんかではなかった。
 もしも自分たちの子供が自殺したとしたら―僕は自分もしくは家人も含めて自分たちを激しく責めると思う。家人や僕の存在は子供の自殺を思いとどまらせる根拠にならなかったという理由で。子供の自殺を思いとどまらせるほど僕たちは子供を愛してやれなかったその心を温めてやれなかったという理由で。そればかりでなく僕らは彼がそこまで追い詰められてることに気づいてやれなかったという理由でも自分たちを責めなくてはならない。そこに至るまでに周囲に気づかれる兆候がまったく何もなかったということはおそらくあり得ないから。
 それで結論だ。実際に何があったか知りたいと言うけどそれより前に親のできることはあったんじゃないかというのがそれだ。我が子が自殺して調査委が入ってその調査結果に不満を表明するよりずっと前に子供が自殺しないように全力を尽くすのが親の義務なんじゃないだろうか。そして子供が自殺してしまったらそれを止められなかった自分たちを猛省するしかできることはないんじゃないだろうか。いじめと自殺に仮に因果関係があったとしてもその因果関係に介入して因果のつながりを断ち切ることができたのはまず第一に親だったはずだ。ことが起こってから他人の調査に不満を表明するくらいなら全力で子供を愛し守ってやる必要があなたたちにはあったんじゃないか。僕はそう思う。