指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

その一秒を削り出せ。

 お客さんのワミさんがプールサイドに姿を見せたので近寄って行って半月振りに挨拶したらお体でも壊されてたんですかと言う。塾やってるんですけど春期講習だったんですよと答えると一瞬の間の後にああそうだったんですかと言う。ワミさんが心配なさってるかと思ってと言うとほんっとに心配してたんですよ私と答えるのですいませんと言うと逆に恐縮したようにいえいえそういうことではないんですけどと答える。この人はプールサイドのような他に人がいるところでは話したくないみたいで長いお話をするのは決まって僕が受付にいてふたりきりで話せるときだけだ。それが他に人がいても話し込むなんて今日はほんとに相当話したかったんじゃないかと思う。一時間ちょっと後で受付の仕事をやってると更衣室から彼女が出て来て何かつぶやきながらバッグをごそごそやってたと思ったらどこぞの消印の捺された何も書いてない葉書を取り出すとそれを差し出して何か曰くを話し始めた。ところが結構忙しい時間帯だったので集中して耳を傾けることができず何を言ってるのかがよくわからない。なんでも消印が美しいのでわざわざ局員さんに捺してもらったということらしい。それでも彼女は言いたいことを言ってしまうと満足したように挨拶をして帰って行った。まあそれで気が済んだのならよかった。
 受付にいるといろいろ話す機会が増える。早稲田の学生さんを息子さんに持つお母さんがスタッフさんにいてたまにしか勤務に入らないんだけど大学のことや奨学金のことなんかで相談を受けたりしたことがあってとても仲よくさせてもらってる。そのスタッフさんが通りがかったとき息子さんが確か一年くらい留学すると聞いた覚えがあったのでその後どうですかと水を向けると六月末でちょうど一年経つのでもうすぐ帰ってくると言う。早いなあ。息子さんは就活ですかと尋ねられたのでそれが大学院に行きたいと言い出しましてとこの前書いたようにあと一年で肩の荷が下りると思ってたのに延びそうで困ったという話をすると素敵じゃないですかお勉強お好きなんですかと尋ねる。確かに勉強は好きみたいで毎晩遅くまで塾にこもってるし資料や参考書の類いも目に見えて増えて行ってる。だからまあ初めはちょっとショックだったけどやりたいことをやらせてやりたいという方向に気持ちが傾いてると言えば言える。家人なんか始めから手放しで賛成してるし。でも少子化は進んで行く一方だろうしたとえ大学に職を得たとしても一生安泰ということになるんだろうかとか親の心配の種は尽きない。でもまあ親を簡単に安心させないというのも考えてみれば一種の親孝行なのかも知れませんねと自分でもいささかひねくれてる気がすることを言ったら相手はそうですよーと答えたのでそういうもんなのかも知れない。もうひとり今年娘さんが医学部に合格した五十代女性のお客さんがいてたまに話すんだけどその人にも同じ悩みを打ち明けたら行かせて上げて下さいよーということだった。娘さんはまだ大学一年なのにもう院に進みたいと言ってるらしい。医学部はただでさえ六年なのに博士課程まで含めたらプラス五年で計十一年。それに比べりゃうちの方がまだマシかという気にもなる。
 今日のスイムは昨日考えたことをできる限り守ろうと思ってまず休憩は三十秒以内に収め泳ぐときに意識して力を抜くことを心がける。時間を確認するにはアップルウォッチよりもプールサイドの文字盤の大きな時計(ラップカウンターと呼ばれている)の方が便利なので五十メートル泳ぎ切る毎にすばやくそれを見て今の時間を確認し三十秒過ぎたら秒針がどこまで行くのか計算する。そしてその時間が来る前には必ず次のスタートを切るようにする。タイムは常に五分間で百五十メートルの最低ラインを上回っていて半分の五百を折り返したときには合計15分と数秒しかかかってなかった。このペースなら30分と数秒で千を泳ぎ切れるかも知れない。体がつらいかと言うといつも通りにはつらいけど特にすごくつらいという訳でもない。それで九百五十メートルを折り返すときにアップルウォッチを確認すると三十分までに1分ちょっと残ってる。五十の平均ラップは昨日の計算では1分7秒。こりゃ夢の三十分切りかと思ってほとんど休憩せずに泳ぎ始める。実際アップルウォッチのログでは最後は五十メートルじゃなく百メートルまとめて泳いだという風にカウントされていた。ほとんど休まずに最後の五十メートルに挑んだということを意味してる気がする。泳ぎ終えて計測を止めると・・・30分01秒。その一秒を削り出せ。明日まだ今日のモチベーションを保てるなら。