指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

「マディソン郡の橋」のリアリティー。

マディソン郡の橋

マディソン郡の橋

keiko23*1さんのブログをきっかけに、リアリティーという言葉について自分の考えていることを頭の中でなぞっていたら、突然「マディソン郡の橋」のことを思い出した。と言うのも小説のリアリティーということを説明するときにこの作品を引き合いに出すとわかりやすいなと、以前考えていたことがあるからだ。ただそれからもう随分時間が経つし例によって手許に本が見当たらないので、すべて記憶に頼って書くしかない。別にストーリーについて述べることが重要なわけではないので、それでも何とかなりそうに思う。
マディソン郡の橋」は出た当時すごく売れていたと思う。モデルになった橋を訪れるツアーなどもあったように記憶している。アメリカの田舎に住む主婦と行きずりのカメラマンとの不倫を描いたいわゆる「純愛もの」だ。不倫が純愛というのも変な話なんだけど一言で言おうとすればそう言うしかない。
実は僕はこれを実話だと思って読んだ。最初は小説だと思って読み始めたんだけど読んでいるうちに実話ではないかと思えて仕方なかった。なぜかと言うと、文章に隙が多すぎるように思えたからだ。とてもプロの小説家の手になる作品とは思われない。でも一旦実話なんだと納得すると文章の杜撰さも気にならず結構のめり込んで読むことができた。その感じをちょっと意地悪く言うとこうなる。これほど文章がひどいんだからこれはフィクションではないだろう、だとしたらこれは本当にあったお話なのだ。そしてそう決めてしまうことで逆にすごくリアルな話に思えてきたわけだ。
でも「マディソン郡の橋」はフィクションだった。きっかけは憶えてないけどそう知ったときはちょっと混乱した。下手に書くことによって逆に獲得されるリアリティーというのがあり得るのか、と。
もちろんその混乱の出所は明白だ。フィクションとしてのリアリティーと実話としてのリアリティーが混同されていたのだ。文章が下手だからかえってリアルな話のように思われる、というとき、そのリアルさは実話としてのリアリティーでしかない。これは嘘いつわりのない本当のお話だといった程度のリアリティーだ。そのリアリティーのよって立つ場所は現実そのものということになる。言葉の向こうに現実が透けて見えることが、そのリアリティーの根拠になるわけだ。
これに対して僕が考えるフィクションとしてのリアリティーは現実にまったく依拠していない。それがよって立つのはただ作品内部に置かれた言葉とその緊密な連携だけだ。そこに透けて見えるのは言葉そのものと言葉が喚起するイメージであって、現実の姿などどこにもないしなくても全然構わない。その位置から言えば「マディソン郡の橋」の現実に根拠を持つ(かに見える)リアリティーはやはり全然駄目だということになる。
自分でもちょっと過激じゃないかと思わないでもないけど、リアリティーと言えば即フィクションとしてのリアリティーを指すような使い方を、リアリティーという言葉に対してしたい気が個人的にはする。リアリティーとはその辺に転がってるものじゃなく作家が苦労して創りあげるものだ、という思いが抜きがたくあるからだ。
読み返してみたけど、全然わかりやすくない。

*1:id:keiko23さん