指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

「ケルベロス行軍(抄)」についての覚書。

文学フリマで購入した「戦争文学がこんなにわかっていいかしら。」所収の「ケルベロス行軍(抄)」を読み終えたのはもう十日以上前のことだ。作者は「ラス・マンチャス通信」の平山瑞穂さんだ。誰もが書店や図書館で手に取って読めるわけではなく、また抄録でもあるこの作品について触れるにはそれ相応のルールが必要な気がした。それはできるだけストーリーに触れずに(これでネタバレの問題と未完の作品について書くことの問題が同時にクリアできる。)できれば文章上の特徴だけを描き出すことだ。
「ラス・マンチャス通信」は連作短編とも章に分けられた長編としても読むことができる。その中の一編、あるいは一章に「ケルベロス行軍」が含まれていたと仮定してみる。するとそれは明らかに「ラスマン」とは異質な一編ないし一章になってしまう気がする。リアリティーを彫り込むときの用心深い感じとか、不吉な成り行きを予想させる語り口とかは確かに似ている。でももっと重要な雰囲気が根本的に異なっている気がする。
苦し紛れにそれを、作品内の時間の速度と、著述の速度との違い方あるいは調和の仕方と言ってみる。落ち着きの悪い言葉だ。要するにこういうことが言いたい。
著述の速度とは文章の流れの速さのことだ。その速さとは主にどの細部にどれだけ寄り道してどのくらいの詳しさで書いているか、ということでつくられている。この速度を言う限りは「ラスマン」と「ケルベロス」の間にそれほどの差はない気がする。
大きな違いは作品内を流れる時間の速度に表れている。「ラスマン」ではこの速度がゆるめられたり急がされたり、跳躍させられたりしている。その多様な速度を持つ作品内の時間を、著述の速度が知らんぷりでつないでいる。「ラスマン」の、自分がどこにいるかわからなくなるような異世界の感触は、このような多様な作品内時間と、比較的一定した著述の時間とのギャップから来ているように思われる。
その点では「ケルベロス」は作品内時間の速度と著述の速度が比較的調和しているような気がする。異世界の感触は主に名詞の異様さに支えられている。
ケルベロス行軍」は、作者が「ラス・マンチャス通信」で賞を受ける前に書かれた作品であることは作者自身によって明らかにされている。だとしたら「ケルベロス」が改めて教えてくれているのは、作者が「ラスマン」で実現した文体がどれほど魅力的なものかということになると思う。