指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

yo-shun(仮)の頃。

二度の引っ越しをしながら18歳から32歳まで荻窪駅周辺に住んでいた。大学に入ったばかりの頃yo-shun(仮)という名の小さな喫茶店の常連に迎え入れられた。昼過ぎまで寝ていて歩いて駅前まで行き遅い昼食をとってから、時には閉店になるまで入り浸った。香りの高い濃いコーヒーと、ドイツ仕込みのおいしい欧風チキンカレー、キャビアの盛られたオープンサンドと、ロイヤルコペンハーゲンのペストリーが楽しめた。ビールは水色のラベルのレーベンブロイだった。とにかく趣味の良い店だ。店主はアンティークのバイヤーで、調度品もいかにもなものばかりだった。そしていつも古いオペラが低くかかっていた。
この店で様々な人たちと出会った。いずれも一癖も二癖もある人ばかりだったが、そういう人たちに憧れる年齢でもあった。中にひとり読書の先達となった人がいた。詳しくは省くけど変わった経歴の持ち主だった。彼がいなかったら、中上健二さんや吉本隆明さんの著書を読むことはなかったかも知れない。その頃僕はドストエフスキーに没頭していてどこも刈り込んでいないロシア式のひげを生やしていた。そして相変わらず現実より観念の方が上位だと思いこんでいた。
彼の話は難解で半分くらいしかわからなかったが、ひとつ強烈に印象に残っている言葉がある。読書とは、まず自分を読み、次に世界を読み、最後に作品を読むことだ、というのがそれだ。もしかしたらどこかに出典があるのかも知れない。でもこれまでのところ確認できたことはない。
順番はどうあれ僕は今でも読書を、自分か世界か作品のどれかを読むこと、ないしそれらのすべてを読むことだと思っている。感想もその原則に従って書いているつもりだ。自信はないけどおそらく大体はそういうことになっている気がする。