指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

この感じ。

サウンドトラック 上 (集英社文庫) 古川日出男著 「サウンドトラック(上)」
サウンドトラック 下 (集英社文庫) 古川日出男著 「サウンドトラック(上)」
これだけ詳細に書き込まれた小説を読みながらしきりに省略のことを思った。省略された部分、書かれていない部分のことを。いや、そういう言い方で正しいんだろうか。間違っているかも知れない。でも今は他にうまい言い方を思いつかないのでとりあえずこのまま話を進めてみる。たとえて言うならでかい岩がごろごろ並んでいて、それらはぴっちり押し詰められて並んでいるのだけど岩同士だからどうしても間に隙間が空いている、そんな感じだ。岩をひとつひとつよじ登って越えて行くことがこの場合読むことに当たる訳だけど、頭のどこかで今越えた岩は下の方に隙間を隠し持っていること、その隙間に気づかぬままに自分が岩を乗り越えてしまったことが意識されている。この感じ。同じ感じを村上龍さんの作品から受ける。それから中上健次さんの作品からも受ける。お話の展開から言って「愛と幻想のファシズム」とか「五分後の世界」、「ヒュウガ・ウィルス」、「半島を出よ」といった村上さんの作品を思い起こすのは自然かも知れない。でもそういうことではなくて文体の隙間度、と言うとすごく語弊がありそうだけどある種の隙間感が、多くの村上さんの作品と共通している気がする。我ながらなんかすごく不思議なことを書いている気がするけど、今の自分の言葉ではそんな風にしか言えない。中上さんの作品で言えば「野生の火炎樹」とか「日輪の翼」とか、もっとあったかも知れないけど。
この隙間はなんなんだろうなと思う。ひとつわかっているのは、この隙間が文体のリズムをつくり上げると、隙間を隙間として意識しなくてよくなるばかりか、隙間によって文体に余分にリアリティーが与えられることがあるということだ。隙間を隙間のまま残してとにかく先に進んでしまうなりふり構わぬ感じ、力ずくな感じがそのまま文体の強さとして感じられることがありうるということだ。少なくとも三者は、そうしたところから生じる文体の力強さで共通している気がする。男性的、という言葉が思い浮かぶがどの程度当たっているかはわからない。
でも「サウンドトラック」はまだまだ荒削りな印象を与えた。歴史と地理の両面から物語は細かく規定されているし、作者の幻視力は物語をそうした細かい設定のはるか上方に悠々と浮かばせることができている気がする。ただ細部が詰まり過ぎていて物語の駆動力にブレーキがかけられているように思われた。ということは、先に触れた隙間を埋めるものは細部ではないということになる。またうまく機能すると魅力的なあの啓示的な断言にも、そうなるとなんだか違和感を抱いた。「ベルカ、吠えないのか?」を除くと、今のところ古川さんの作品は短編の方が好きだ。