指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

優しさと気づかい。

幼稚園へ子供を送って行く道筋にはふたつある。わかりやすく言うと園の正門に向かって右側から辿り着く道と、反対に左側から辿り着く道だ。うちはいつも左側から辿り着く道を使っている。そして送り終えると僕ひとりが同じ方に向かって帰って行く。前にも書いたように子供と僕の通園時間はかなり早い方なので、送り終えた帰り道には顔見知りの親子が登園して来るのに行き合うことになる。四月にはほとんど見知った顔がいなかったのでのべつ小さな声でおはようございます、と言っていた。それがだんだん誰が何君とか何ちゃんということがわかって行き、今では多いときで七、八人の子供に名前入りでおはようを言うようになった。小さく手も振る。また子供の名前は知らないものの親の顔だけは憶えていて挨拶をする人もいる。ただ正門に向かってうちと反対側の道筋を使って登園して来る親子には、同じクラスであっても顔見知りがほとんどいない。親と子の顔が結びつかない上に子供の名前もほとんどわからない。逆に言うと僕の知名度も通園路によってかなりの開きがあることになると思われる。
それはそれとして、この前家人がお宅のパパは子供の名前を呼んで挨拶してくれて優しい人だ、という話を聞いてきた。まあ確かに優しそうに見えるのかも知れない。朗らかで明るく声をかけるように心がけているからだ。でもそれは優しさとは言わない。気をつかっているだけだ。
実は朝の挨拶にだって結構な苦労がある。たとえば知ってる子と知らない子が手をつないで登園してるとき。片方の名前だけ呼んだらもう片方はおもしろくないんじゃないかと思う。知ってる子と知ってる子の場合でも特にそれが女の子の場合はどちらを先に呼ぶか悩むところだ。何につけど忘れということが大変多くなったので、子供の名前がとっさに出て来ないこともある。名前だけは間違える訳には行かないのでこれは割ときつい。確実でないときは呼ばずに挨拶だけするのが鉄則だ。幸いこれまで間違った名前を呼んでしまったことはない。
これだけ努力しているのだからいつかどこかで少しは報われてもいいとも考えている。ということはやはりこれは優しさというようなものではない。繰り返しになるけど単に気をつかっているだけのことだ。村上春樹さんのエッセイで、女の子に対する気づかいというのはある年齢以上になった場合、相手に気づかれないようにするのがいいというような趣旨のことを読んだ憶えがある。僕の挨拶も気づかいを気づかいと感じ取られていないとしたら、それなりに成功しているのかも知れない。だとしてもまあせいぜいが自己満足に過ぎない。