- 作者: 車谷長吉
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/04
- メディア: 文庫
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でも車谷長吉さんの描く非僧非俗は後ろ向きなイメージにしか感じられない。それは何者にもなることができないということを意味しているからだ。親鸞は比叡山に上った秀才僧侶でいったん頂を極めてから山を下り野に下った。そのため宗教的な修行を全否定して非僧非俗を選ぶことに自ずから説得力が備わる。親鸞の非僧非俗は比叡山からの還り道の課題だ。でも何も極めたことのない生島の非僧非俗は行き道の課題だ。彼はどこへ赴こうとも所を得ることができずその中途半端さは何からも正当化されない。それが世捨人に贋の字がつく所以だ。
でも親鸞と生島のどちらに共感するかと言えば、それは生島だということになる。どこにも所を得ないのは今ここにいる僕自身の問題でもあるからだ。あなたはいったい何になる気なんだと彼が問われるとき僕自身も同じことを問われている。そして僕にはその問いに答えることができない。勤め人であり夫であり親であることで確かに何者かではある。でもそれらの向こうに自分がなるべきさらなる何かを常に探し求めているのが、僕自身の姿でありおそらく生島に共感するすべての人の姿だと思われる。そのさらなる何かの中には可能性としては死や出家といった華々しい選択肢も含まれうるが、それらが本当に選択されることは先験的にない。それが贋世捨人の立つ位置なのだ。
でもその情けなさをここまで濃い味で描くことができるのが車谷さん独自の力量だと思う。この作品に描かれた時間のもっと後で車谷さんは文士になられた。きっと何者かになった後でも車谷さんは自分を贋世捨人と自己規定されているに違いない。それが車谷さんの作品の、味の濃さの秘密のような気がする。