指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

相変わらず再読。

文学なんかこわくない

文学なんかこわくない

これは「週刊朝日別冊・小説トリッパー」に1995年から98年にわたって不定期に掲載されたものを集めた本だ。「退屈な読書」の時評に比べて一編が結構長く大体二十ページ強ある。僕は高橋さんの書評集の中ではこちらのタイプのものの方が好きだ。紙数があるという余裕のせいかあちこちに寄り道がされ、もちろんそれはどれも寄り道ではなく最終的には論旨にかちりと組み合わさるんだけど、そのせいで一編一編の幅がものすごく広がる気がするからだ。

タカハシさんは、もともと結論というものに固執してはいないからである。

これも寄り道のひとつだ。言い捨てられているように見えるけどこの前の「ニッポンの小説 百年の孤独」の読後感にもこれがあった。僕にはこれは高橋さんの割と重要な基本姿勢に見える。タカハシさんは高橋さんのフィクション化された存在で厳密には両者を同じとは見なせないが、ここではフィクションの奥から高橋さんが本音を吐露していると考えてよい気がする。
それとは矛盾するんだけど以下のようなくだりも魅力的だ。

なぜなら、文学とは、結局のところ、その国語によって、その国語に拘束された空間を超えていこうという試みだからだ。文学だけがそれを可能にする。そして、その試みの中にしか、文学の根拠はないのである。

「その国語に拘束された空間」を柄谷行人さんなら「制度」と呼ぶかも知れない。日本語という制度を乗り越えて行けるのは文学の力によってのみだし、翻せばそれが文学の根拠だと言われている。これはタカハシさんが固執しないはずの結論にしか見えない。でもこれもまた高橋さんの本音の響きを持っている。
日本語について、文学について、高橋さんは基本的にはペシミスティックなのではないかと思われる。冗談やユーモアを含む文体の底に暗い顔をした高橋さんの姿が見える気がすることがある。まるで太宰治みたいだ。そのペシミズムが前面に現れたとき高橋さんに残された道はただ力を込めて本音を叫ぶことだけかも知れない。悲壮感に近い哀しみをたっぷり含んだ文体が、その叫び声に説得力を与えることになっている。
思い返してみると「さようなら、ギャングたち」から一貫して、その哀しみの感じに個人的に引きつけられて来た。