指栞(ゆびしおり)

すまじきものは宮仕え。

すっごくおもしろかった。

ピストルズ
シンセミア」もおもしろかったけど、この作品もものすごくおもしろかった。もう読まなきゃ損じゃないかと思っちゃうけどそういうのって押しつけのような気もする。よほどのことが無ければ今年のベスト3に入ることは間違いない。ミステリーやファンタジーとして読んじゃっても全然構わないと思う。
あまり重要なことじゃないかも知れないけど、作中に「シンセミア」はもとより、「グランド・フィナーレ」や「ニッポニア・ニッポン」での物語が触れられている。ほんとはもっとあるのに僕が気づいてないだけかも知れない。そういう物語同士の連結の仕方というのは、なんて言うか個人的にはすごく有効なリアリティー獲得の方法のように思われている。でも単に好みの問題かも知れない。熊野は新宮市が出て来たのにも驚かされた。もちろんそういうことは何も知らなくてもおもしろく読めると思う。
それとこれは随分長いこと考えて来たことなんだけど、たとえば村上春樹さんの一人称の作品を読むとき、どうしてもひとつの小さな矛盾を拭うことができない。作品中の語り手ないし書き手と、作者とは別だという原則に抵触する矛盾だ。作品中の語り手ないし書き手はすでに作品の中に含み込まれているのでそれはフィクショナルな存在だ。それは村上春樹という作者とは別の次元にいる。では、作品の文体は誰に属するのか。通常それは村上さんの文体と呼ばれ、作中の書き手の文体とは見なされない。ここに矛盾は無いだろうか。村上春樹さんの文学的な底力とか、巧みな表現力とかいうものによって初めて実現される物語は、本当なら村上さんと同等の文学的実力によってしか書かれ得ないはずだ。だから作中の「僕」には村上さんと同等な文学的な力が備わっていることになる。でも、そういうことはあり得るのだろうか。ここで「僕」と作者は本来してはいけない同一化を一部なりともしてしまっているのではないだろうか。
いやいや、こんなことはどうでもいいと言えばどうでもいいんだけど、「ピストルズ」にはおそらくわざと文体の質を下げて、この小さな矛盾を回避していると思われるところがあり、それには共感したので触れておきたかった。