指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

共通する状況のようなもの。

 短編集としてはこのひとつ前の作品に当たる「女のいない男たち」で各編に共通する状況のようなものを取り出すとするならそれは女を共有する男たちの話だということになると思う。同様に今回の「一人称単数」という言葉が短編集の中の一編のタイトル以上に一冊を通して共通するものを担っているとすると(担ってるように思われるんだけど。)それは私小説のような短編ということになるんじゃないかと思う。もっとも収録された八編の語り手がすべて一人称単数だからと言って即座にそれらを私小説っぽいと評すのは誤りだ。それなら作者の作品の大半が私小説のような作品ということになってしまう。そうではなくて各編の語り手が作者自身と等身大であるような印象がつくり出されているところに私小説っぽさの根拠がある。特に「ヤクルト・スワローズ詩集」というファンには耳慣れたタイトルを持つ一編はほとんどエッセイと見分けがつかず一読してどこがフィクションなのかわからない。そこには語り手が「風の歌を聴け」で小説家になったことが書かれてあり、「羊をめぐる冒険」を書き上げる前日談が書かれている。父親とのエピソードもこの前の「猫を捨てる」とリンクしてるように読める。するとそれを書き記している「僕」は限りなく作者自身に重なって見えてくる。お話としてはそうしたノンフィクションに見えるものから明らかにフィクションとしか思えないものまでグラデーションはある。でも文体的な特徴をつかみ出すならどれも語り手と作者がとても近いということになる。それがこれらの短編を書くときの作者のルールだったように思われる。
 でもだからなんなんだと言われるとそんな風に書いてみたかったのかなという以上の推測はできない。一人称単数を語り手に据えた文体の可能性を再び試してみたかったとでも言えばいいか。個人的にはそんな推測でもわりに納得できる気がする。でも矛盾するようだけどたとえば「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」のエンディングなどを読むと明らかな架空の世界の内部に新たな現実の層が現れたみたいに見える「1Q84」を読むときのような不思議な気持ちになる。それがどんなエンディングかはどうぞご自分の目でお確かめ下さい。