指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

今さら、もしドラ。

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら 岩崎夏海著 「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」
小学校の高学年くらいだったと思うけど道徳の教科書を読むのに結構はまったことがある。読書の時間なんかにぱらぱら読んでいた。教訓とか倫理とかそういうのを知識として得たかったと言うより、道徳の教科書特有の古くささ、嘘っぽさみたいなものに惹かれた。今どきそんなのあり得ないよとツッコミを入れながら読んでいた訳だ。やな小学生だったかも知れない。
こんな話を憶えている。あかつき、というあだ名の男の子がいた。体操着か何かに垢が付いているのをクラスメートに見つかってそんなあだ名になった。それを聞いたすごく性格の良い女の子があかつきは夜明けのことだから、「夜明けの王子様」というあだ名に変えるといいと提案して今ではその男の子もクラス替えの後とかに自分を「夜明けの王子様」と紹介している、というものだ。でもこれってあり得なくないですか。あかつきを夜明けと読み替えるのはいいとしても、王子様の出所がわからない。また自分を「夜明けの王子様」と紹介する感覚もちょっと気持ち悪い。これはその女の子の思いやりみたいなものを強調するためにつくられたつくり話じゃないかと思われた。
前置きが長くなったけど「もしドラ」を読んでいてそんな道徳の教科書に出て来る話を思い出した。とても似ている気がした。作者はこの作品を小説と呼んでいるけど、小説として読むならそのつくり話っぽさが鼻について真に受けられない。作者にとって重要なのは物語の緊密さとかではなく、ドラッカーの「マネジメント」の理論を実践的に解説することだからだ。そこが、物語自体でなく物語に含まれた教訓の方をより大事にする道徳の教科書に似ている。だから逆にドラッカーの「マネジメント」に関する入門書、あるいは啓蒙書と割り切ってしまえばいい。「マネジメント」からたくさんの引用があるが、引用部だけ読んでも具体的にどういうことが言われているのか理解するのが難しい気がする。それを高校の野球部のマネジメントに当てはめたのはいいアイディアだし、すごくわかりやすくなっているように思われる。ただし野球部をテーマにするなら野球に関する知識は完璧にしておくべきだった。一、二塁にランナーがいる場合一塁走者がどんなに俊足でも相手のピッチャーにはプレッシャーとならない。それは常識だと思う。作者もそのことには一応触れているけど、実際には相手のピッチャーにプレッシャーがかかったことになってしまっている。そういう危うさは不必要だと思う。