指栞(ゆびしおり)

すまじきものは宮仕え。

あの頃のいちばんの出来事。

どくとるマンボウ青春記 (新潮文庫)

どくとるマンボウ青春記 (新潮文庫)

  • 作者:杜夫, 北
  • 発売日: 2000/09/28
  • メディア: 文庫
 

  高校のときの愛読書が北杜夫さんの「どくとるマンボウ青春記」だった。中に太陽党(ドイツ語で「ゾンネン・パルタイ」と言うと書いてあったと思う。)という考え方が出てきてこれは個人的に女性を排して男性だけで生きて行くということだった記憶がある。今ならいろいろ差し障りのある考え方に思えるけどまあ古い本に書いてあったことだからご勘弁を。ちなみにこの本の紹介を少しすると旧制松本高校(今の信州大学かと思う。)で寮生活を送る(後にひとり暮らしに移ったような気もする。)筆者自身を回想したエッセイ集で筆者もその他の学生たちも個性的で奇妙な人たちばかりだけどその裏には自分たちはなんと言っても知性に仕えているのだという矜持がありそれが高校生の自分の目にはひどく魅力的に映った。今なら若干問題を感じないでもないけど僕も男子高に通っていたしそういう魅力的な生活を送る旧制高校生に自分を重ね合わせるのも自然な成り行きだったように思う。彼らと同様日常で同年代(あるいは少し年上とかでもよかったかも知れないけど。)の女の子と触れる機会というのはこれはまあ皆無で文化祭などには割にたくさん女の子が来てイベントなどで盛り上がった覚えはあるけどそれはその場限りのことで中にはそういうのをきっかけに彼女ができる友人もいたけど僕や親しい友だちとは縁の無い話だった。だから自分もゾンネン・パルタイとして生きて行こうといつの頃からか思い決めるようになり将来的にも結婚などすることなくなんかこう仙人めいた暮らしをして行くことになるんだろうなとぼんやり考えた。理想の女性は「赤毛のアン」のアン・シャーリーで彼女を胸に秘めてるだけで満足だった。そうして高校を卒業して浪人生として上京してきた。ところが。
 今もあるのかも知れないけど当時のディスコにはチーク・タイムというのがありこのときだけはダンス・ナンバーではなくバラードなんかが流れ薄暗いフロアはより暗くなってペアの男女が抱き合って静かに踊る。チーク・タイムという名の通り頬と頬を寄せ合うペアもいる。もちろん僕らには相手がいないのでダンス・フロアを離れてバー・カウンターとか椅子とかに座って何か飲んだり食べたりしながら指をくわえて、という感じでチーク・タイム明けを待つ。ところがあるとき僕らと人数がぴったり同じ女の子だけのグループがいてそういうのに慣れたひとりが声をかけて仲良くなった。新宿にある専門学校に通う女の子たちでほぼ同い年だった。僕はとにかく女の子と話したこともないし話し方もわからなかったので全部で十人くらいで集まった席で誰かと誰かが話すのに耳を傾けていただけだったんじゃないかと思う。すると音楽が急にトーンダウンしてチーク・タイムが始まった。それでじゃあみんなでチークを踊ろうということになって近くに座った者どうしで即席のペアを組んでフロアに出た。今から思うとちょっと不思議なんだけどたぶん女の子たちの誰もそれをいやがらなかったんだと思う。ここではっきり覚えているのは僕とペアを組んだ女の子がとてもかわいい子だったということだ。あまり口をきかずおとなしかったけど顔立ちが整っていて立ち上がると思いがけず背が高くすらっとしていた。特に華美な服装ではなかったけどさっぱりしていて好感が持てた。僕たちは向かい合って互いの腰のあたりに両手を回しリズムに合わせてぎこちなく体を揺すった。話をした記憶はないけど彼女の身長が168センチだということを覚えてるので何かは話したのかも知れない。このとき僕はゾンネン・パルタイなんて場所に自分を置き続けることはできないと心の深いところで思った。自分はこの向かい合って踊る素敵な女の子に惹かれないでいることはできない。彼女に惹かれるのはすでにどこかで決められたことだし自分は彼女に惹かれるようにつくられているしそれに抗うことはできないんだと心の底から思い知った。それがディスコで受けたいちばんの衝撃だった。
 でも現実的に彼女に対してできることはそれ以上何もなかった。どういう成り行きだったか覚えてないけど特に連絡先を交換することもなく(そんなこと思いつきもしなかったと思う。)その夜は帰って来てそれ以来彼女には会ったことがない。ただ後から思うと大切だったのは彼女個人ではなく彼女がその一部である女の子全体に対して自分が肯定的になれたことだと思う。そのディスコの一件がなくともいつかどこかで僕はきっかけとなる女の子に出会っていずれにしてもゾンネン・パルタイを手放すことになっただろう。でもそれがあのおとなしくてきれいで背の高い彼女であったことはとても大切な思い出になっている。今でもときどき彼女のことを、と言うか見かけとかはすべて忘れてしまったので後に残った彼女の気配のようなものを、それから彼女が僕に手渡してくれたとても甘美なめまいのようなものを懐かしく思い出す。

(僕が持ってるのはたぶん中公文庫版です。この表紙にはまったく見覚えがない。)