指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

昨日。

 午後三時半くらいに母親から電話があって父親が亡くなったことを知らされた。早朝に病院から電話があり弟のクルマで駆けつけると臨終には立ち会えたとのことだった。意識はなく安らかな死だった。母親も体調が優れずそうあちこち出かけられる状態ではないし訳あって親交のない親族も多いため弟がひとりで葬儀をすると言う。こちらとしては特に意見を述べる筋合いではなかった。またこの状況で東京から行くことも避けた方がいいように思われた。斎場は混み合っていて葬儀は五日の土曜日になるが遺体は業者の人が当日まで預かってくれるので何も問題はないと言う。母親にあまり無理をしないように伝えて電話を切った。そのときは特に強い感情を覚えなかったけど家人に伝えるときには涙がこぼれた。何が悲しいのか自分でもよくわからなかったけどただひたすら悲しかった。ああ自分は父親のいない世界に初めて足を踏み入れたんだと思った。何かしていた方がいいと思ったので泣きながら風呂を洗いもうあまり時間もなかったので塾へ出かけた。気持ちの上では休んだ方がいいような気もしたけどあいにく体験授業の日だったしまた何もしてない方がつらいんじゃないかとも思われたからだった。それで授業は普通通りおこなった。
 帰宅すると夕食前に入浴するんだけど風呂につかりながらいろいろ考えているとひどく悲しくなってきて風呂を出て体を拭きながらまたひとしきり泣いた。僕の知る限りでは父親はあまり立派とは言いがたい行いも生前していた。でも子煩悩ではあった。だから僕自身は父親の嫌な思い出というものをほぼ全く持っていない。大体仕事が忙しくてあまり家にいなかったし前にも書いたとおり18歳で家を出てしまったので一緒に暮らしてる時間も比較的短い方だった。大人になってからの父親の言葉で覚えているのは、お前に家を建ててやらなくてはならないというのと僕が離職したときの、どうする、こっち帰ってくるか、という言葉のふたつだ。後者については前にも触れた。父親は両親(僕から見て祖父母)の家も建てたし自分の家も二回建てたしその上僕の家まで建てようと考えていたらしい。家というものが父親にとってはとても重要なものだった。今から思うとそのことがはっきりわかる。そして父親に大切なものがあったことと父親にとってそれが大切だと自分が気づいたことの両方をとてもよかったじゃないかと思う。
 夕食を済ませてからブログを書いた。何を書くかは大体考えてあった。実は読んで下さる方のお身内にご不幸があったと知り言葉をかけづらかったのでせめて毎日ブログを書いて読んでいただこうと何日か前から書き続けてきたんだけど自分の方が親等の近い身内を亡くしてしまったことになる。昨日のエントリが最後ではお読み下さる方々も居心地が悪かろうと思い今日は少し詳しいことをお知らせした次第だ。なので星もコメントも不要です。お読み捨て下さるとうれしいです。